【和風】冬薔薇の戀
ナオミコ
【和風】冬薔薇の戀
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庭の赤い椿の花弁の表面に舞い降りた粉雪が、やがてゆっくりと溶け出し、透き通った水滴へと変化する。
柔らかな花弁を滑り降りて、縁で跳ねると雫となって土へ還っていった。
地に落ちる一瞬前に陽の光に照らされ、虹色に輝いたかのように見えたのは、誰かの気の精であっただろうか――。
大正時代の武家華族、辻本家の長女であった辻本百合子(つじもとゆりこ)が亡くなったのは、患っていた喘息の悪化のせいであった。
彼女は数えで二十五歳。昨年見合いで嫁いだ元夫から出戻り、これから新しい人生を再び始めようとしていたというのに、と悲しむ声もあったが、傷物となってしまった彼女が再婚する望みもないだろう。今後周囲から哀れみの眼差しで見続けられる人生を送るよりも、という冷たい声も聞こえた。
冬の陽が柔らかく差す師走の始まりに百合子の通夜が終わり、悲壮な雰囲気も少し落ち着いた後の食事の席である。
辻本家の使用人や辻本家の親戚等が、この席だけは身分の隔たりなく寿司を囲みながら座っていた。しかし、同席していても暗黙の気遣いがあり、使用人は使用人だけで隅の方に集まって座っている。部屋の中に多くの人がいるというのに、明け放された障子のせいであろうか、外からひやりとした冬の冷気が漂い流れ、皆黒い喪服の上着を脱ぐことが出来ずにいる。
「なぁ、俺小便したなってきた」
顔にそばかすを浮かせた若い使用人の蝶野寅吉は、正座をしながらむずむずと下半身を動かしていた。
「あほ、入り口の方に人が集まってるやろ。もうちょい待てぇや」
は不機嫌な顔をしながら寅吉の肩を己の肩で小突く。彼らは共に二十一歳。辻本家に仕える同い年の使用人である。吾両の方が十年前に他の商家の丁稚から辻本家の庭師として雇われ、その翌年に寅吉が下男として雇われた。
「せやかて俺もう我慢できひん、ちょっと行ってくる!」
股間を抑えて立ち上がり、出口へと走っていく。
「はあ……アイツこんな時に……。ほんまもんのあほやな」
吾両は瞼を閉じ、長机に置かれた湯呑に長い指を這わせ、茶を飲んだ。湯呑は白の地に藍色の釉薬で椿の花が大きく一輪描かれている。椿は辻本家の象徴とも言ってもよい花である。吾両は辻本家の中庭に植えられている白、赤、斑入りや薄紅色の椿の世話を一人で行っていた。
彼のその姿を、辻本家の親戚の若い女たちは離れた席から見つめている。頬を染め、こそこそと互いの耳と唇を寄せ合い、目白の小鳥たちが囁きあうように話し合っている。
吾両は黒髪で、精悍な顔立ちをした男だった。うなじを刈り上げ、長い前髪を七三に緩く垂らしており、その様も切れ長の瞳に似合い、艶やかさを増している。
「吾両、隣ええか?」
湯呑を口につけたまま、声がした方を瞳だけで見上げる。
家令のが腰をかがめて吾両を見ている。頭に白髪が混じる五十代の男だ。優しい笑顔を浮かべているが、顔の皺が百合子の死の前よりも深くなったように感じ、吾両は眉をしかめた。
(こん人は、百合子様を娘のように幼い頃から可愛がっとったからな……)
湯呑を置き、両手で体を浮かし、寅吉の座っていた隣の色の座布団へ移動する。
「どうぞ」
「悪いな」
大吉は吾両の隣に胡坐をかいて座る。
「辻本の親戚の方々にご挨拶しとってな。ちょい疲れたわ」
「お疲れさんです」
「お前も疲れたやろ」
「俺は大丈夫です。横手さんみたいに権限のある使用人じゃないですし」
吾両は苦笑いする。
大吉は家令なので上司であった。だが子供の頃、別の商家で丁稚奉公をしていた時の上司よりも信じられぬほど優しく温かい人物であった。
初めて会った時、捨て犬のように汚れていた幼い吾両に柔らかな笑みを見せてくれた。そして、大吉の前の担当であった庭仕事を教えてくれた日のことを、昨日の事のように思い出す。この人が植物と人間に平等に向ける優しい眼差しが好きであった。周囲から不愛想と言われ、冷たい印象を持たれている吾両でも、素直な感情を向けられる、限りある人物であった。
「いや、立場のことやない。お嬢様との関係は、お前の方が深かったやないか」
「……」
笑みを消し真顔になると、大吉から目をそらし湯呑を見る。
「お前、お嬢様と仲良かったやんか。まぁ、お嬢様の方が一方的にお前を気に入っとって、お前を弟みたいに可愛がっとったんかも知れんけど、お前とお嬢様は、特別に見えたぞ」
「勘違いですわ。お嬢様のことは確かにとして好きでしたが、主従以上の感情は何もなかった……」
「ほんまかいな」
「変なこと言うんやめてくださいよ」
目を閉じ眉をしかめて笑う。湯呑に残った湯が、手から伝わる振動で少し揺れていた。
水底に緑の茶粕が澱のように重なり、深緑色になっている。
その水面の揺れを、大吉は見逃さなかった。しかし、深追いはしなかった。使用人の中で、いや、この屋敷の中で、自分と同等か、最早それ以上に百合子の死によって心に深い斬り傷を負ったのはこの男だろう、と思っていたからだ。
その斬り傷は今後何年経っても本人の気づかない間、赤黒い血を流し続けるだろう――。
「やあやあ、すっきりさっぱり! 小便すませてきたでぇ~」
大吉と吾両の会話により生まれた悲壮な雰囲気を読まず、へらへらと憑き物が落ちたように笑いながら寅吉が戻ってくる。
『小便』という場違いな言葉が割と大きな声で聞こえたことにより、離れた場所に座っていた親戚たちが不機嫌な顔をこちらに向けてくる。
吾両はその気配を察した。
自分の傍に胡坐をかこうとする寅吉の着物の襟を握り、引き寄せた。
「阿呆! ご親戚の方々が来とるのに大声で小便なんぞ口走るなや!」
息を殺し、静かに怒る。
「あいた! すまんすまん」
吾両が襟から手をぱっ、と離すと反動で寅吉は後ろにすてんと倒れ、目をぱちくりとさせる。
大吉が呆れたように溜息をつく。
起き上がり、空いた場所に胡坐をかく。
「ったくほんまあほやな」
舌打ちを打つように吾両は言葉を漏らす。
「あ、そういえばさあ、どこ行った?」
「さあ知らん」
「ならさっき様の荷物持って部屋に持って行ったんちゃうか」大吉が応える。
(仕事しとるんかあいつ)
吾両は毒島薔子の小柄な後ろ姿を思い浮かべた。
薔子は四年前、彼女が十五の歳に辻本家に奉公に来た女中である。今辻本家にいる女中の中では一番若かった。今年で数えで十九になる。
吾両は薔子が辻本家に来た日のことを未だに鮮明に覚えていた。
大雨の日に百合子が夜遅く帰宅したかと思えば、藤色に金の小菊の花の刺繍が施された傘の下に、何かを抱えるようにして立っていた。視線を移せば、垢と泥だらけの小さな捨て猫のような少女が、かたかたと震えていた。
怯え、百合子の脇にぴったりと付けていた顔をゆっくりとこちらに上げる。
白に紫の百合の花が描かれた百合子の着物は、少女の体の泥が移り、汚れていたが、百合子はそんなことはどうでもいいというように傍らの少女に聖母のような優しい眼差しを向けている。
真珠のように真っ白に光っている眼に、灰茶色の瞳が大きく置かれている。以前、屋敷の本棚に置かれているのをこっそり盗み見てしまった鉱石の図鑑に載っていた琥珀の写真を彷彿させた。その目の周囲を長い睫毛が凛と上を向き、花弁のように覆っている。泥でぱさついた波打つ髪は夜の闇の如く黒く、彼女の背中を流れ、太ももの中間あたりまで伸び、覆っている。
ずぶ濡れの薄汚れた髪の長い浮浪児の少女、それが薔子であった。
その日に限り、女中たちは盆で実家に帰っていたり体調不良だったりで手が空いておらず、百合子に頼まれて薔子を風呂場で洗う仕事を任された。最初は男の俺が、と躊躇ったが、大吉がお嬢様の百合子が浮浪者を洗うことを止めたのだ。
冷たく赤い手を無理やり掴み、風呂場に連れて行った。
後ろを振り返らずに手を引いていたので、薔子が吾両の背を唖然とした表情で見上げていたことには気付かずにいた。
風呂場に薔子を立たせると、しゃがんで風呂の木蓋を両手で開ける。まだ温かさの残る湯の白い湯気がふわりと立ち上がり、霧のように2人の間を覆った。
だが、裸足の下にある紺色の陶器の床は乾いており、冷たい。
寒いのであろう、立ち上がり、後ろを振り返ると薔子の歯がかちかちと鳴っていることに気付いた。
赤と思われる縦縞が入ったほうじ茶色の着物が肌に張り付いている。それを無理やり脱がすと、灰色の泥がこびり付いた肩が現れた。
その泥を見た時、早くこの娘を綺麗にしてやりたい、という強い衝動に駆られ、その後の行動が素早くなった。
藍染に白い蓮の花の文様が描かれた手ぬぐいに、風呂桶にあった残り湯をつけ、自分の麻の着物の袖を紐で背に括り上げると、薔子の顔を見ないように風呂場でごしごしと洗った。
洗っていってやると、灰色だった泥肌が徐々に薄紅の桜色に変わっていき、息を飲んだ。これが本来のこの娘の肌なのかと、だんだんと洗うことに夢中になり、我を忘れていった。
恥ずかしがり、乳房を隠していた薔子の両腕をどかすと、淡い膨らみだが形の良い双丘が現れる。「いや」という少女の声も耳に届かず、両の乳房を手ぬぐい越しに揉みしだくように泥を落とす。
やがて薄紅に朱を一滴垂らしたような乳輪と乳首が現れた。薔子の体の震えから、胸は小刻みに揺れている。咲きかけの野薔薇を見てしまったと思い、茫然と見とれてしまっていた。
そのまま手を下ろし腹や太もも、更に股の間に手を入れ、花芯まで拭っていく。虚ろな眼でひたすら前後に花芯を拭いていると、薔子は息が荒くなり、歯を食いしばって快感に耐えていたが、堪え切れず「は、あ、あぁ」と泣くような嬌声を漏らす。
最早彼女にとっての許容範囲を超えた快感に、頭が追い付かず熱に侵されたようにぼうっとなっていた。
ふっ、とその声で我に返り、見上げる。頬を赤く染め、眉をぎゅっとしかめながら涙目になり、涎を顎に垂らしてこちらを見下ろしている、薔子の潤んだ灰茶色の瞳と目が合った。
自分がしてしまったことに気がつき、急速に恥ずかしさがこみ上げた。
顔を真っ赤にして口元を片手で押さえ、彼女から視線を逸らすように俯いた。
十七の春に、初めて女の体に触れた吾両の手は、初雪を触った後のように真っ赤に染まった。温かい湯に触れていたというのに、かじかんでいた。
「あ~ここにおらんのか。薔子の喪服見たかったなぁ」
寅吉の間の抜けた声で我に返る。薔子の為にも早く忘れなければいけなかったことをまた思い出してしまい、自分に対して怒りの感情を抱く。その感情で更に倍増しになり、寅吉を睨む視線が鋭くなる。
「お前、不謹慎やぞ……。お嬢様の葬式やぞ」
「俺見たで。やっぱ毒島は黒が似合うわ」大吉がにやりと返した。
「横手さん」眉をしかめ、大吉に顔を向ける。
寅吉は羨ましそうに溜息をつく。
「ええなぁ。あいつやもんなぁ。髪なんか艶があって、口紅いつも真っ赤で……。仕事中にすれ違うと薔薇の香りするんたまらんわ。吾両見たか? あの腰、あの胸……。最初屋敷に来た時はこんまいお嬢ちゃんやったのに、ここ二年で急に女になってしまった。着物着とっても極上の女の体なんが分かるわ」
恍惚として薔子を語る寅吉を無視して湯呑の茶を飲む。
「ちぇっ、なんやねん。……お前お嬢様一筋やったもんな」
「変なこと言ったら殺すで」
湯呑から口を離し、茶の水面を見つめたまま凄みのある声で返した。
「吾両はこう見えて適当に遊んどるからええねん」大吉は笑う。
「へっ、色男は女にも困らんか」
2人の声が聞こえていない様子で、神妙な顔でただ碧い茶の水面を見続けていた。
吾両は急に立ち上がると、寅吉に足袋を履いた足でどけという仕草を示し、出口へ向かう。前髪で顔が見えなくなっている。
「吾両、どこ行くんや」
急に様子が変わった吾両に心配気に問うた。気を紛らわせてやろうと薔子の話をしたが、無駄だったか。
「ちょっと俺も小便行ってきますわ」
大吉の声に応えるように、後ろを一瞬振り向くと、満面の笑顔を見せる。再び背を向け、出ていく。
その吾両の姿を見てぽかんとした後、寅吉も満面の笑顔になる。
「なんや! あいつも小便我慢しとったんやんけ!」
その大声に再び親戚の群れがざわめき、怪訝な顔でこちらに視線を送ってくる。
大吉は呆れて頭を抱えると、寅吉の頭をびしっ、と叩いた。
「あいてっ」
割と強い力で叩かれたので、頭の芯がじん、と痛んだが、何故か叩かれる前よりすっきりとした風が脳裏に吹いたような気がして、寅吉は己の頭のつむじを撫でた。
百合子が生前使っていた部屋は、未だに鏡台や箪笥など、使用していた家具が残されていた。
その戸を開け、静かに部屋の中へ足を踏み入れる。
(お嬢様の部屋や……)
部屋の中は凛とした冬の空気に包まれていたが、その中に一滴、百合子の使っていた白百合の香水の香りがするのを感じた。
(百合子様……)
一歩、二歩と部屋を歩くと、左手が震え始めた。その拳を白くなるほど強く握りしめる。
(何で死んだんや)
思い返すと、あの人の満開の花のような笑顔だけが思い浮かぶ。死ぬときは苦しかっただろうに、辛かっただろうに、無念だっただろうに、何故か幸せに生き切ったと信じられる百合子の笑顔しか浮かばなかった。
彼女が幼い頃から使っていた年季の入った桐箪笥に目を止め、近づくと手前で腰を下ろし、正座する。虚ろな眼で一番下の段をゆっくりと開ける。
百合子の着物はまだ幾枚か仕舞われたままになっていた。
(この一番上の着物……。お嬢様が一番よう着とった着物や)
棺の中の百合子は死装束を身に纏っていたが、涙が乾いた瞳でその姿を見た時に、まず率直に抱いた感想は、(こん人は思てた通り白が一等似合うわ)というものであった。
生前の百合子は黄色地に牡丹や赤地の菊模様など、明るく華やかな着物を好んで着たがったが、吾両はそんな柄の着物よりも真っ白な着物が一番似合っていると思っていた。
混じりのない、何者にも犯されない純白を纏う女性。それで彼女は終わりを迎えた。
一番上に綺麗に折り畳まれた白い着物を崩さないように、震える両手で手を下に差し入れ、ゆっくり取り出す。上質な絹の滑らかさが手の平を柔らかく撫でた。
両手に乗せた百合子の着物をじっと見つめていると、涙が後から後から頬を伝った。眉を歪ませ、瞳をきつく閉じると、着物に顔を埋め、固く抱きしめる。
「百合子っ……」
嗚咽を漏らしながら白い着物に涙の染みを作っていく。
――そうや、ずっと心の中では『百合子』と呼んでたんや。
あれは丁度(ちょうど)一年前の冬。
「吾両は相変わらず指が綺麗やなぁ」
椿の首を、鋏で一輪一輪丁寧に切っていく吾両の手を眺めて百合子はそう言った。
縁側に座り、白地に黄色の百合模様の着物を着た百合子は紫のショールを肩に羽織っていた。薄い絹製のショールは、白い着物を透かすように百合子の肩を覆っている。
彼女の髪は生まれつき少しだけ色彩が淡く、陽の光に当たると金を孕んだ茶髪に輝く。
それを彼女は気にしていたが、吾両は美しいと感じていた。
今はその柔らかな髪をハーフアップにし、陶製のバレッタで留めている楽な髪型にしていた。
バレッタにはターコイズブルーの地に薄紅色の牡丹の花が釉薬で描かれ、周囲を金の縁取りが覆っている。
吾両は定めていた斑入りの椿の首を切り落とすと、微笑み返す。
百合子は彼を満面の笑顔で見つめ返したが、急に真顔になり、虚ろな眼で、心ここにあらずといったように呟いた。
「うち、出戻りやさかい、今家におっても居場所が無いように感じるんよ。でもこの庭で、吾両の手入れした椿を見てる時だけ、心が休まるんや」
吾両は、手を止め、真剣な顔で百合子を見つめると、鋭い声音で言った。
「相手が悪かっただけです。お嬢様は何も悪くありません」
彼女の苦しみを切り落とそうとする、鋏のような声音であった。
「ありがとう。吾両はほんま優しいね」
瞳を閉じ、柔らかい笑顔を見せる百合子だった。
だが吾両は、そこに青い悲しみの色が混じっているのを見落とすことが出来なかった。
縁側からよいしょっ、という声と共に庭へと降りると、尻を一度はたき、吾両に近づいていく。
「なあ吾両、うちにも椿の切り方教えてえな」
あどけない少女のような声で懇願され、たじろいだが、首を左右に振る。
「……お嬢様に、刃物を持たせる訳にはいきません」
「ええやない。どうせもう傷物やし」
「……そんなご冗談言ったかて何も面白くありません」
怒りを交えた声で百合子を睨む。
百合子は閉じた唇から桃色の舌先を出し、お茶目に笑った。
ふいに吾両の片手を可憐な両手で包むように掴み、優し気に見つめる。
吾両は急に触れた百合子の手の柔らかさに一瞬瞠目し、息を殺した。
「痣、消えてきたね」
「……もうここに来て今年で十年ですからね」
「あんた、うちよりちびで可愛かったのに、今は背丈追い越されてしまって悔しいわ。……吾両、ここに来てよかった?」
百合子は吾両の手首を抱いたまま、顔を上げる。目を細めて微笑んだ。その瞳は不純物を一切含んでいない泉の如く澄んでいた。この瞳で見つめられれば、言葉も、体も逃げることが出来なくなる。息を吸うのと同時に、吾両は胸に秘めていた本心の一部分を桶で掬いとリ、声に出して語った。
「……あの日、前の丁稚奉公先で虐待されとった俺を、お嬢様が引き取ってくださらなかったら、向こうのおやじに殺されてましたからね。あの日から俺はお嬢様のもんどす」
あれは遠い日、十歳の幼い記憶。
その日も商家の丁稚奉公先で、殴る蹴るの暴行を受けて鼻血を啜りながら、冬の寒い日に門の外に出されていた。
吾両が最初に連れられた商家は男所帯で、右も左もわからず必死で仕事を覚えようとする吾両に、先輩の使用人たちは何も教えてくれなかった。しかし観察力が鋭く、要領がいい吾両は、他の使用人たちの行動をじっくりと見ることで仕事を覚え、来てそれほど時が経っていないというのに一通りの仕事が出来るようになっていた。それも、そのどれもが他の使用人よりも完成度が高かった。
長年奉公してきたというのに、自分たちより早く仕事が出来るようになってしまった幼い丁稚の少年のことを、性悪の男達がよく思うはずがない。
最初は皆が寝静まった夜に、使用人が雑魚寝している寝所から連れ出され、井戸の水を全身にかけられる程度であった。だが次第にそのめは激しさを増していった。
屋敷の雑巾がけをしている最中に通りかかった者に足を手で踏まれたり、言いがかりをつけられては襟首を掴まれ、中庭に連れ出され殴る蹴るの暴行を受けた。
権限のない自分が口ごたえをしてもこの状況は悪化するだけだろう。薄れていく意識の中、切れた唇の中で歯を食いしばりながら、早くこの時が終わる瞬間だけを待っていた。
そんな吾両の様子を商家の主はある時に気付いた。吾両は、主が助けてくれるのかと幼心に半ば期待していた。だが、主は吾両に対し、お前が屋敷の風紀を乱している。と告げ、吾両を見つけると仕事の細やかな間違いに対する言いがかりをつけては、自分も暴行に加わった。
そして顔中腫れ上がり、体に紫色の斑点の痣が幾つも出来た吾両を気味悪く思い、ある真冬の綿雪の降る夕暮れに、彼を屋敷の外に立たせるという罰を与えた。
このまま凍え死んだ方がましやろうか。
暗い空から舞い降りてくる白い雪をぼうっと見上げていた。空は薄墨を何層にも重ね塗りしたような黒で、ところどころ筆でぼかしたような灰色の雲がその画上にアクセントをつけている。
手袋も足袋も身に着けることを許されなかった手足は、寒さで既に感覚を失い、唇は紫色に変化し、歯はかたかたと鳴り続けている。雪と冷気に撫でられ続けている睫毛の先は、小さな氷柱のように凍ってしまっている。鼻孔から内部に入ってくる空気は、吸う度に体温を一度ずつ下げていくように冷たく刺さっていた。
商家の者たちに暴行を受けている最中も、早くこの時が終わってほしいと思い続けながら耐えていたが、今はこの命が早く終わってほしい、それだけを不思議と澄んだ頭の中で思考していた。
空から頭をゆっくりと落とし、茫とした瞳で前を見る。
路上に降りつもった純白の雪道をしゃりしゃりと踏み進んでいく何かの音が、赤く染まった耳に聞こえてきたかと思うと、目の前に黒い車が停止した。
このご時世に車に乗っているなんてよほどの金持ちなんやろうな、と俯瞰した視点で考えた。
鉄製の固い車のドアが、きぃという音と共に開く。冷気で少し軋んでいる。
(ああ、ついに死神さまが俺を迎えに来てくださったんやーー)
吾両は、瞳を閉じ、両手を口元で合わせると、仏に祈りを捧げるように俯いた。
暗くなった閉じた視界に、しゃりしゃりとこちらへ向かってくる静かな足音だけが聞こえてくる。
もうすぐ、もうすぐ死ねる。
口を少し開き、うっすらと微笑んだ。その顔は皮肉に歪んでいた。
ふいに肩に温かく柔らかい手が乗せられる感触がして、死神さまってあったかいんやなと、夢見心地に感じていると、ふわりと体が前方に引き寄せられた。
背に腕を回され、触れた頬には絹の滑らかな感触、そして柔らかなふくらみが顔を包んだ。塞いだ瞼をはっと開ける。
揺れる瞳で見上げると、薄墨の雪空を背景に、瞳を閉じた美しい少女の顔が見えた。
長い睫毛を震わせ、少し眉を歪ませて泣きそうな顔になっている。
髪は結い上げられており、乳白色に薄紅を一滴垂らしたような色彩の簪を付けていた。自分の顔を包んでいたのは彼女の胸で、紅色の薔薇模様に周囲に広がる景色と同じく雪のような白地の着物を着ている。
あまりの驚きに「はっ……」と息を吸うのと同時に声を漏らす。
それに気づいた少女・百合子は瞳をうっすらと開けると、抱きしめた幼い少年を見下ろし、優しく微笑んだ。
百合子の笑顔は、冬の陽の光のように白く輝き、暖かかった。
「天女さま……」
か細い声で思わずそう呟いていた。その声は、額に触れた雪と同様に溶けて消えていく。
ワインレッドの手袋越しに吾両の凍った前髪を上げ、その富士額を撫でた百合子の手はうっすらと冷たさを表面に纏っていたが、内側から漏れ出す熱を彼に与えた。
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