【和風】紅子の風車
ナオミコ
【和風】紅子の風車
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「い~のち~、みじ~かし~、こいせよ、おとめ~♪」
薄紅色の桜舞う春の川沿いを、辻宮紅子は自転車に乗って走っていた。ハーフアップにした髪に、赤いリボンをつけ、それが風にそよいでいる。背まで流れる長い髪が舞い上がり、陽光で、紅茶色に透き通る。
明るい笑顔の17の少女は、玲瓏だが芯の通った声で、歌を歌っていた。赤紫の矢絣の着物に、薄紫の袴を履いている。
女学校が午前中で終わった嬉しさで、紅子は高揚していた。
「ん? なあに、あれ……」
紅子は、袴から覗く茶色のブーツを、すとんと地に下した。
自転車が急停止する。
「あれ……、女の子……?」
紅子の視線の先には、川に半身を浸した小柄な少女がいた。それが少女だとわかったのは、紅子の視力がとても良いからであった。紅子は、自転車をぽい、と離すと、袴が汚れるのも構わず、急いで少女の元へ駆け降りた。
紅子は少女の傍らに片膝をついて、肩に右腕を回し、左腕を頭の下に回した。。お下げにしていたのであろうか、両耳の下の2つの束の黒髪は解かれ、先が川に浸っている。赤に白く大きな椿の花が咲いた着物を着ており、その半身が川に浸っていた。細い手首をそっと触ると、ひどく冷たかった。
青白い顔には、地から跳ねた泥がつき、汚れていた。
「おい、アンタ、しっかりおし!」
紅子はかや音の体を膝の上に乗せると、ぺしぺしと頬を叩いた。
紅子の声と、手の感触に反応したのか、うっすらと瞳を開く。一瞬目が合うと、また睫毛を震わせて瞳を閉じた。
「待ってくれよ……」
桜色の唇を舌で舐めると、少女の両脇に手を入れ、肩に担ぎ、ゆっくりと川沿いを上がっていった。
黒い鉄柱の門の前に立った紅子は、少女を担いだまま、途方に暮れていた。
少女を乗せて自転車で家に戻ることは不可能だったので、川沿いにそのまま捨て置いたままにしてきてしまった。
(しゃあないよね……。のちのち言い訳を考えればいっか)
少女の尻に左腕を回したまま、右腕で押すように扉を開け、そそくさと中へ入っていく。自分の家なのに、まるで、泥棒のような心境であった。
ブーツの音が鳴らないように、慎重に地に足を着けながら、屋敷の裏へと向かう。裏には、玄関とは別の、紅子と数人の使用人しか知らない、裏口があるのだ。それは台所に繋がる入り口であった。
裏口へと繋がる道は、若い木々に囲まれ、緑で溢れていた。
扉を少し開けて中を覗く。紅子の大きな鳶色の瞳が隙間から覗いた。
台所は閑散としており、用具は置かれていたが、いつもいる職人たちはいなかった。
「よしよし」
紅子は片足で一気に扉を蹴り開け、中に入った。もう少女を担いでいるだけで、腕に余裕が無かった。少し痺れてきてもいた。
口角を上げる。してやったりという気持ちだった。
「紅子さま、お帰りで」
紅子の左から、低い声が聞こえた。
「へ?」
紅子は、はっとした顔になった。
台所と通路に繋がる、紅子が入った裏口と対になる入り口に、家令の清田正夫が立っていた。黒いスーツを身綺麗に着こなし、七三で分けたグレーヘアは威厳を感じさせた。
その清田が、腕を組んで、厳しい顔で紅子を睨んでいる。
「うわああ!」
紅子は不自然に背後に手を回し、限りなく笑顔になった。
「紅子さま、どちらにいってらっしゃったのです。ん? 背中が痛いのですか?」
清田は、覗き込むように紅子の背後を見ようと背を伸ばす。
紅子は慌てて後ずさった。
「いやいや、何でもないよ清田! っじゃあね!」
蟹歩きで徐々に速度を上げて去って行く。
「紅子さま!?」
裏口から清田が顔を出した時には、紅子は既に去っており、ただ、緑の木々のそよぎが聞こえてきただけであった。清田はこめかみを人差し指で掻き、持ち場へ戻っていった。
木陰に身を伏せた紅子は、少女の肩を掴み、体を前倒しにして辺りを伺っていた。富士額に細かな汗をかいている。それを手の甲で拭うと、さっと手を下に下し、汗を地に落とした。
はあ、はあ、と肩で息をつく。
紅子は少女に視線を戻す。少女は既に気がついており、大きな瞳で紅子を見上げていた。
紅子は、少女に向かって安心させるように微笑みを返す。
「ごめんねぇ。まだアンタの事、家に入れてあげられないわ」
少女は、瞳をゆっくりと瞬くと、紅子を見つめた。
もうそろそろ自分で立てそうかな、と感じ、かや音の背から手を離すと、額に手を当て、紅子は思案顔になった。顎に手を当て、唇を尖らせる。
「裏口からがいいか……。いや、縁側から? あー、でもあっちはなぁ……」
横目でちらりと少女を見た。口元には、皮肉な笑みが浮かんでいる。
「吾両が中庭で椿の手入れをしているからねぇ」
きょとんとした少女の尻にまた手を回し、お姫様抱っこをすると、紅子は立ち上がり、「さ、行こうか」と声をかけた。
少女の尻と背から腕を離し、床に下すと、紅子はふう、と一息ついた。流石に休みなく動き続け、人目を気にし続け、疲れていた。
一応、紅子は少女を縁側に面した己の衣裳部屋へと運んだ。庭師の使用人は、庭仕事に集中しているだろうから、こちらには来ないはずであった。縁側から零れる緑が、目に優しく、疲れた体に癒しをもたらした。
「ふーっ。なんとか屋敷のやつらに見つからずに、アンタを持ち運べたねえ」
少女は、紅子の顔を見上げていたが、気付いたように姿勢を整え、三つ指をつくと、紅子に向かって頭を下げた。長く艶やかな黒髪が、畳にひたりとつく。
紅子は慌てて少女に向かって手を振ると、腰を屈め、少女の顔を覗き込んだ。
「いいって! いいって! そんなの。顔上げなよ」
顔を上げた少女は、涙目になっていた。目の縁が赤く染まっている。紅子は少女の頬に手を当てた。
少女は驚いたように睫毛を震わせた。
先ほど顔の汚れを手ぬぐいで拭いてやった少女は、よく見ると美形であった。青白かった顔が少し血色がよくなり、桜色に染まっている。瞳は大きく黒々としており、上向いた睫毛に覆われている。眉毛辺りで切りそろえてある前髪は、さらさらとしており、背を流れる長い射干玉の黒髪も、先ほど泥に濡れていたとは思えないほど清らかで、滑らかに昼の光に凛と光っている。小さな鼻と唇も、とても愛らしかった。
「あんた、川の汚れで気付かなかったけど、よく見りゃ可愛い顔してるじゃないか。後であたしのべべと髪飾り貸したげるから、待っといでな」
紅子が頬から手のひらを動かすと、少女は瞬きし、瞳から涙が零れる。
「ふふっ、涙まで綺麗でやんの」
紅子は微笑みながら、少女の涙を人差し指で拭った。
少女は安心したのか、少し口元に笑みを浮かべる。
「そういやあさ。アンタ、お名前なんてぇの」
少女は、乾いた唇をすぼめ、湿らすと緊張した声音で応えた。
「かや音です」
「かや音」
紅子は満面の笑顔になった。
「何をしておいでですか」
はっと肩を叩かれたように、かや音と紅子は声のした方を振り向いた。
縁側の前に、仁王立ちで立っている男がいた。手には鋏を持ち、無表情で2人を見下ろしている。
かや音は、怯えて身を固くした。
冷たい印象の男だった。昼の光が背を差し、逆光となっている。短い黒髪を緩く額に流し、鋭い瞳をしていた。だが、かや音が今まで見たどんな男よりも精悍な顔立ちをしていた。見れば手には鋏を握っており、陽に当たった鈍い光が、かや音の頬に反射し、より彼女を怖がらせた。
じっと男の瞳を見つめるかや音に対し、紅子は隣で、ひくひくと片側の頬を引きつらせて笑う。
「吾両さん……。アンタ庭仕事してたんじゃないのかい」
男・吾両は、草鞋を脱ぎ、縁側に上がると、ゆっくりと彼女らに近付いた。
「そちらこそ、女学校の宿題はどうされたのです? 宿題がその少女なのですか?」
「言うねえ」
紅子は挑発的な物言いをした吾両に対し、笑顔で応えたが、怒りの為が、額に一筋の青筋を立てていた。立ち上がり、確かな足取りで吾両の元へ向かった。
吾両も更に紅子との距離を詰める。
両者一歩も譲らず、胸を逸らしあいながら、睨みあった。
かや音は口を開け、畳に両の手をつき茫然と2人を見上げる。
吾両は興味の無さそうな眼で、かや音をちらりと見ると、再び紅子に視線を戻した。
「で、この娘、どうされるのです? まさかご自分で育てると仰りはしないでしょうに」
「おやおや、もしあたしがそう言ったら、アンタどうするんだい?」
吾両は紅子に一歩、間合いを詰めた。
「馬鹿、としか言いようがないですね」
「ほうほう、言うじゃないか」
紅子は満面の笑顔になった。それは、彼女の中に生まれた更に激しい怒りを隠す仮面のようでもあった。常に笑みを絶やさない紅子は、笑顔の種類によって感情を変えている。
紅子は更に間合いを詰め、下から吾両を睨み上げる。
遠目から見ると、口づけを交わしてしまうのではないか、と思うほどの近さであったが、そこには殺気が漂っていた。
両者の一歩も引かない状態に、かや音は手の甲に汗を浮かせた。吾両も怖いが、正直、紅子も怖い。唇に手を当て、怯えを隠す。
かや音は、さっと立ち上がった。しかし、2人はお互いを睨みあった状態なので、かや音が立ったことに気付かなかった。
かや音は2人に頭を下げ、そそくさと縁側に向かった。
紅子は吾両を睨んでいたが、かや音が横を通り抜けたことに気付き、はっとした。
「かや音?」
かや音は、紅子の驚いた声に、ぴたりと立ち止まった。
「かや音、アンタどこ行くんだよ」
間延びした、紅子の柔らかな丸い声音が、かや音の背を優しく撫でる。それにこわばった体が緊張を解されたように、ゆっくりと紅子の方を振り返った。
紅子と吾両は、険しい顔から、はっと驚いた顔へと変わった。
かや音は涙目になっていた。頬を赤くさせ、今にも零れ落ちんとするような大粒の涙を瞳の端に溜めている。
ゆっくりと頭を下げると、長い黒髪が縁側につきそうになった。
「紅子さま。私を拾ってくださって、ありがとうございました」
かや音の涙が、地に落ちる。
「かや音……」
「このご恩は忘れません」
震える声で感謝の想いを告げると、さっと踵を返し、縁側から飛び降りようとする。
紅子は吾両を両手で押し、走って行ってかや音の腕を掴んだ。
「ちょっとお待ちよ」
かや音は、はっと振り返った。
紅子は背筋を伸ばし、吾両の方を振り返った。
紅子は真剣な顔をしていた。吾両としばし見つめ合い、やがて徐々に皮肉な笑顔を浮かべた。
「吾両さん……。この子、うちで雇ってあげてもらえませんかね」
吾両は真顔だった。
「本気で仰っているんですか」
「ああ、本気だよ」
数秒、紅子と見つめ合い、ふっ、と息を漏らす。しぶしぶといった顔で、頭を掻いた。短く溜息をつき、視線を2人から逸らすと、また戻す。そしてかや音を見た。
「かや音と言ったか」
低い声で名を呼ばれ、かや音は肩を叩かれたように、はっとした。
「はい」
「女中部屋は屋敷の一番奥。他に5人女中がいる。寝るときは、雑魚寝してもらう。給金はそれほど高くないが、日曜はしっかりと休んでもらう。最初は縁側の雑巾拭きから始めてもらう。それでいいか?」
平坦な声で、当然のように告げられる。
かや音はしばし、唖然として吾両を見ていた。
紅子は感動したように、瞳を揺らせて笑顔になる。
「吾両さん……」
「いいかと聞いている」
かや音はゆっくりと、息を吐くと、両目から一つずつ涙を流した。白く滑らかな頬に、彼女の清らかな涙が落ちる。
頭を下げた。小さな肩が小刻みに震えていた。
紅子はいじらしい笑顔で、かや音を見つめていたが、愛おしそうに彼女の頭に手を、ぽん、と置いた。
「これからよろしくね」
紅子とかや音の背後に、光が差した。
かや音は紅子の顔を見つめながら、この世にこんなに素敵なお人がいるのか、という神聖な気持ちを味わっていた。
風車が、くるくると回っている。赤と青の羽を持つそれは、15の少女の吐息でくるくると回り、紫に染まった。
かや音は唇を尖らせて、右手に持った風車を楽し気に回すことに夢中になっていた。縁側に下した両脚が、ゆらゆらと揺れている。
「何をしている」
はっと、かや音は後ろを振り返った。
手にしていた風車を、ぽとり、と落とす。
吾両が、かや音の背後に立ち、彼女を見下ろしていた。夕暮れの光が、2人を橙色に染めている。
風車を慌てて拾うと、両手で胸の前に持つ。
「掃除は終わったのか」
「は、はい」声に挙動が混じっていた。
「その風車はどうした」
「紅子さまに頂きまして」
感情を宿さない冷たい眸で、かや音のつむじを見つめる。
(こいつ、いつの間に三つ編みになったんだ……)
疑問を抱きながら、風車とかや音を交互に見直すと、踵を返した。
「大切にしろよ」かや音に背を向けたまま、吾両は小さく告げた。
「は、はい」
かや音は吾両が去って行ったのを、瞳を上げて確認すると、ほっ、と息をついた。
そして、自分の両肩に垂れる、長い三つ編みの一房を、指でつまみ上げる。
紅子が、結ってくれた時の感触を思い出し、頬を朱に染めた。
「紅子さま……」
愛おしい主の名前を口にし、かや音は風車の羽を、白い指で、とん、と叩き、一回転させた。
かや音の春が、今始まろうとしている。
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