【11】オワイヤレ
翠柯(すいか)
【11】オワイヤレ
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山形県東置賜郡赤湯町。町田嘉章採譜。郷土文化協会『篠笛日本名曲集1』(尾原昭夫編)並びに『東北のわらべうた』仙台中央放送局編より。五音構成【ドレミソラ】譜面キー【Am】
■歌詞
オワイヤー オワイヤー
オワイヤーレー ヤーレー
ねっと ねずみに ひかれんぞ
おぎっと よたかに さらわれる
オワイヤー オワイヤー
オワイヤーレー ヤーレー
ねっと:寝んと=寝ないと?
おぎっと:起きると?
■追記
「オンバエヤレ」は「背に負う」の意味で、地域によっては「オワイヤレ」ともいう。(『日本わらべ歌全集3』p307。白鷹地方の子守歌脚注より)
■翠柯(すいか)
山形と言えば山寺(立石寺)。山寺といえば芭蕉の句「閑(しずか)さや岩にしみいる蝉の声」──あたりが筆者の凡庸な連想。緑濃い夏のイメージから、命名は翠柯(すいか)。緑の枝を意味します。
■歌唱コード
(Am)オワイヤー
(Am)オワイヤー
(C)オ(Dm)ワイ(Em)ヤーレー
(Am)ヤーー(Em)ー(Am)レー
(C)ねっと(Em)ねず(Am)みに
(Em)ひかれん(Am)ぞ
(Em)おぎっと(Am)よたかに
(Dm)さら(Em)われ(Am)る
(C)オ(Dm)ワイ(Em)ヤー
(Em)オワイ(Am)ヤー
(C)オ(Dm)ワイ(Em)ヤーレー
(Am)ヤーー(Em)ー(Am)レー
※こんなふうにコードがコロコロ変わるのは自分でも「不正解」ですが、とりあえず歌唱用に付けたコードです。
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■1962年生60歳。冬濤(ふゆなみ)はハンドルネームですが Youtube 等には本名公開しています。
■追記(22/03/01)
活動再開しました。詳細は投稿【M1】参照
■もりっこぶる〜す
─歌ってみよう守り子唄─
M1→?:ブルース(守り子唄)編
01→50:ララバイ(子守唄)編
◼️ツイキャス
https://twitcasting.tv/c:azul_z9
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もりっこぶる〜す
─歌ってみよう守り子唄─
■ララバイ(子守唄)編
2020/12完結
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ここには、40代頃に集めた各地の子守唄=守り子の唄をアップして行きます。低レベルの弾き語りでコラボ素材とはいえません。単なる曲紹介とお考え下さい。手もちの篠笛曲集、古本屋巡りで入手した民謡集、わらべ歌集などが主な出典。ネット上にはより正確な歌唱や別バージョンの楽譜もあるでしょう。選曲はあくまでも好み。個人的に「いいな」と感じた歌を唄っているだけで、地域その他のバランスや「この唄は入れるべき」的な諸基準は考慮されていません。音数の少ない素朴な唄から始めて、全部で数十曲になる予定。楽曲の利用は自由(作者不詳の歌ばかり)です。
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子守唄=名もなき守り子たちのブルース
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日本の伝承子守唄は「母がわが子に歌い聴かせたゆりかごの歌」──ではありません。貧困から奉公に出された幼い守り子(もりこ)の労働歌ないしはブルース。歌詞内容は手を焼かせる赤子にたいする愚痴や脅しなど、要は仕事の辛さを紛らす娯楽でした。唄の作者も、好きなように改作しながら唄を引き継いだ歌い手達も、著作権や音楽活動とは無縁のまま世を去り、かろうじて唄だけが遺りました。下手でも歌ってみることが、唯一にして本来の尊重かな──と。音楽的資質に恵まれていたであろう、名もなき守り子たちに、哀悼と、ささやかな敬意を込めて。
──日本の子守歌の多くは、もともと子守り娘(こ)たちの労作歌である。母親などが子どものために歌う歌も皆無ではないが、きわめて少ない。そういう意味では、クラシックの子守歌とは性質がかなり違う。子守り娘たちはひじょうに幼く、7、8歳から12、3歳位という年齢の子たちだった。それが貧しい故に子守り娘としてやとわれていたのである。(『愛のゆりかご〜日本の子守歌』東亜音楽社発行/1995年/小島美子氏(元国立歴史民俗博物館教授)の解説文より)
──取材をしていて、子守歌に共通しているのは、自分の子には子守歌をうたって眠らせたことはなく、孫にはうたってやったと語られることがある。自分の子を育てる年齢の時には、労働力の中心であって、夢中に働いたものだという。(柳原書店『日本わらべ歌全集3』p164)
専門書によれば、一口に守り子(赤子の世話をした子供)といっても形態は様々。右田伊左雄氏は、①兄姉守り子②互助守り子(ご近所助け合いの守り子)③奉公守り子(雇われ守り子)──の三種を区別しています(『子守と子守歌【その民俗・音楽】』東方出版/1991)。詳細は省きますが、奉公守り子だけが子守唄の歌い手ではなかったということ。唄の作者についても、現代感覚が美談に仕立てそうな特定の無名の少女でなく、既存の民謡やお囃子をベースに、好きなように唄い継がれ、唄い変えられるなかで集団的に形成された──と見るべきでしょう。そのあたりは踏まえた上で「名もなき守り子たちが創った音楽」という側面を、筆者は強調しています。学術的視点ではありません。ご了承下さい。
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守り子たちが完成させた日本の子守唄
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歴史に守り子たちが登場する前(中世以前)から子守唄はありました。唄の作者は赤子の親や大人たちでしょう。そういう唄も含めて子守唄を唄い継ぎ、そこに守り子自身の唄を加えて「日本の子守唄」と呼びうる音楽を完成させ、これを後代に渡したのは守り子たちです。筆者はこの意味で、日本の子守唄は守り子たちの唄──と言い切っています。
守り子たちが唄う前からあったであろう古い子守唄にも、筆者は守り子たちの視線を感じます。守り子たちが唄に「自分」を入れて唄ったことで創られた世界──遠くから聴こえてくるような寂しさ。帰りたい「どこか」をみつめる望郷──これらはそのまま日本の子守唄に独特の美しさとなっています。
その典型が、全国で最も唄われた江戸子守唄の歌詞「坊やのお守りはどこいた/あの山こえて里へいた」。里は一般に守り子の故郷と解されています。最初はそうだったでしょう。けれど数多の守り子たちがこの歌や類歌を唄い重ねたことで、この「里」はもっと広い意味になってきました。実際には奉公で異郷に出された守り子もいれば、地元で赤子を背負った子もいます。立場は違っても共通していたのが「帰りたい」という思い。帰りたい……どこへ? 親元へ? 帰れた場所はそこだけですが、守り子たちが山の彼方にみていた「里」は親里よりも遠いどこか──今風にいえば自分の本当の居場所──だったのではないか。筆者はそんなふうに感じています。
──現実の苦しみから脱け出したいという子守娘の願いは、現実では満たされず、心を遊ばせるだけのものであった。それは「あの山越えで里越えで」にあらわれている。自分を里に帰らせるという、その夢想は、現実が苦しいものだけに、より美しくて儚(はかな)いものであった。(柳原書店『日本わらべ歌全集3』p164)
奉公守り子であれ互助守り子であれ、守り子にとって子守は大人に押し付けられた仕事、社会から強制された役割でした。そこが地元でも子守りという役割がすでに異郷。子供が好きで他人の子を背負った訳ではありません。赤子に抱いた感情は母の慈しみではなかったし、かといって愚痴や不満だけでもありませんでした。
ねんねねんねと寝た子はかわい
起きて泣く子は面(つら)憎い
(竹田の守り子唄など全国に類歌詞多数)
世界に類をみない日本の子守唄の寂しさ=美しさは、ここから生まれています。子守奉公がなかったというアイヌや沖縄の明るい子守歌(音楽的にはむしろ高い評価を受けています)に、この寂しさはありません。欧米諸国の子守歌(クレイドル・ソング=ゆりかごの歌)も同様です。母と子の絆としての子守歌は、守り子の喜怒哀楽とは無縁のこうした歌や、日本なら明治大正以降の創作子守歌になるでしょう。
筆者が生まれ育った戦後の高度成長期(1960年代頃)は、守り子たちから渡された伝承子守唄を、今度は母たちがわが子のために歌い継いだ──そういう時代でした。既に奉公守り子の姿はなく、育児は専ら家庭の主婦が担った時代。この世代の多くが子守唄=母の唄と記憶ないし把握しているのは、こうした時代背景が産んだ心象風景でしょう。時代を少し遡れば、それが“姉や”(守り子)になることは童謡「赤とんぼ」に歌われている通りです。……余談ですが歌詞「十五で姉やは」の「姉やは」部分は、江戸子守唄(陽旋法)3-4小節目と同じ旋律が使われています。
子守歌は母の愛といわれます。その普遍性は尊重しますが、筆者がこの十数年でランダムに入手した子守歌の楽譜集は、どれも母と子の子守歌、愛のゆりかごの歌という括りで、解説をよく読めば守り子のことも書いてあるという程度。これには疑問を感じました(注:例えば前記『愛のゆりかご〜日本の子守歌』に寄稿されている小島美子氏の解説それ自体は、専門家らしい的確な記述、むしろ守り子の存在に注意を促す記述と筆者は受けとめました。疑問を感じたのは、専門家の解説でお茶を濁しておけば万全、子守歌は母と子の歌として括ればよい、括られるべき──とする社会感覚の方です)。
こうした経験から、とくに日本の伝承子守唄にかんしては、おまけ扱いの守り子たち(子守唄の中には守り子がうたった唄「も」あったという扱い)に、主役に相応しい光を当てたい──というのが筆者の感覚となっています。現代にも響いている竹田の子守唄や五木の子守唄は守り子たちの唄。音楽としての「日本の子守歌」への貢献(とくに歌い手としての貢献)はもっと評価されてよいと思います。
最後に一点。守り子たちが素直に愛したのは、背負わされた赤子でなく、歌うこと、でした。それでよい、それが正しい──と筆者は考えています。
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守り子の名前について
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作者不詳の子守唄は、タイトルは後付け、作者名の代わりに地域名、採譜者名など記されるのが一般的です。その慣習は踏襲しつつ、ここでは唄の創作者(原作者と歌い継いだ守り子たち)に、勝手ながら、固有の名前を付けることにしました。地域=守り子たちが生きた土地にゆかりある名前にしたく、例えば富山の唄なら、その歌い手だった守り子たちを、総称的に「呉羽(くれは)」と呼ぶことにします。守り子は基本、女児であったことから、女の子の名前を意識しています(一部に男児もいたようですが例外的でした)……といっても地域の括りは大まか。個人的な遊びです。
※名前の一覧は【50】をご覧下さい。
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歌唱に使用した主な楽譜集
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曲ごとに出典は記していますが、とくによく使ったのが以下の二つです。
■篠笛日本名曲集1-6
尾原昭夫編/郷土文化協会/1994-2000年
1-3巻はわらべ唄、子守唄が主役の編集で筆者が子守唄にハマるきっかけとなった楽譜集。素人にも接しやすい譜面で当サイトの歌唱もほとんどがこの楽譜集の譜面をベースにしています。
■日本わらべ歌全集
全27巻39冊/柳原書店/1979-1992年
わらべ唄の集大成。図書館や研究機関には必ずある全集です。過去文献からの引用譜面も含みますが基本は直接取材の採譜。伝承者の高齢からすると事実上これが最期のチャンスだったと思われます。その意味でも大変貴重な楽譜集。
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追記
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現代社会におけるこの分野(子守歌関連)の活動は、児童保護と密接に係わっています。児童は保護されるべきという一般論に異論はありませんが、私冬濤は、児童や女性の人権を盾にして、多数決が侵してはいけない自由を蹂躪してきた現代社会を、真っ向から批判している人間です。言い方を変えれば、私冬濤は人権よりも自由を尊重する人間です。その意味で児童や女性の味方ではありません。子守唄をうたっていることで誤解されそうな部分ですから念の為、明記させていただきます。
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