特別短編「パンドラの箱、完結」(teru)
秘密結社 路地裏珈琲
特別短編「パンドラの箱、完結」(teru)
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ぽくり、とも、パリン、ともつかない、くしゃっとした音が地面で破裂して、薬草の香りが辺り一帯に広がる。それは長らく瓶に閉じ込められていた、誰かの記憶だったはずなのだが、思い出として持ち主の元に戻ることは、ついに無くなってしまった。鼻腔に届いた蒼青としたハーブの香りが、人のざわめきに変わって、まるで波紋のようだ。僕もまた、戸惑いの震源付近で立ち尽くす人間のひとりである。テルに、一切の迷いはなかった。
「テルちゃん...!?」
「これで、終わるかな......おじいさん」
頭を抱えて膝をついた男性の隣で、グリードだった老人はテルの問いかけに、少し目を潤ませて微笑んでみせる。ゆっくりと2度頷いて、背を向けた彼は、一体どんな気持ちであったのだろう?僕が忌まわしい記憶を紐解いて組み立てられる限りの彼では、とても想像なんかできない、穏やかな目で、テルが贈った”終わるかな“の一言に、答えを見出したようだった。
「私は許さないわよ...絶対、絶対許さない!!」
ファーコートをかなぐり捨てて、焼印で焦げた背を剥き出そうと歩み出た花子を、マメスケが慌てて羽交い締めに引き止める。断つべき憎しみの連鎖を、長らく僕らは絡ませあって、引き摺りながら生きてきた。いや、今だってまだそうだ。だから花子がこうやって喚く。声をどう上げて良いか分からない僕らの代わりに、彼女は金切り声で、弱り切った老人に向かって罵声を浴びせるのだ。側から見てどうだとか、そんなことお構いなしに。
「止めてくれるな、分かっているんだ。残された過去の片鱗に薄々気づいていた。君達の目を見れば分かるさ、私はきっと、とんでもない男だったに違いない......きっと、生きている事を悔やまれるような男だ。そうだろう?」
「その通りよ!!人間の屑、何ひとつあんたの中に真当な人生なんか残ってない!!」
花子の震える手をそっと、テルが両手で包み込む。もう二度と、このしがらみから解き放たれる事なんかないと思い込んで、忘れる事より、恨み続ける事を選んできたのは、ひとりぼっちで抱え込んで居たからだって、彼女は気がついたのだと思う。僕が思うにその手の温もりは、今の花子を救うには、どんな言葉を差し置いても一番必要なものだった。
金切り声が、少し涙ぐむ。
「.......テルの厚意に感謝してるんなら、約束しなさい。今後、私に毎月一回、決まった日に手紙を寄越すこと。洗いざらい近況書いて、真面目に生きてる証拠見せて。あと、稼いだ金で果物かお菓子も。私ちゃんとチェックするからね、1回でも遅れたらすぐぶん殴りに帰ってくるわよ」
「君は、それで良いのかい?」
もう少しだけ、鼻にかかる。
「何よ、文句あんの!?詫びる気あるなら、ちゃんと人間らしいとこ見せてみなさいよ!食い扶持削ってでも、誰かの為になんかして!人間ひとり、本物の孫かってぐらい大事にしてから、それから死んで!!あんた自分で、生きるって言ったんだからね!!」
テルの両手に包まれて、花子の毒々しくって赤い爪が少したじろいだ瞬間、長らく喉を締め上げていた鎖がやっと、ボロボロ崩れて落ちた、そんな気がした。
僕は、みんなが先に花子を連れて飛空挺へと戻った後、呼び止められたテルに付き添って、場に残った。帰り道、黙った彼女を連れて長い畦道を行く間、ずっと、繰り返し僕の頭でまわっていたのは、そこで老人がテルに語った言葉だ。
”お嬢さん、私は弱い...本心を語るなら、記憶が欲しかった。幾つであるかも分からない老体に、人生の軌跡はなく、人として生きた実感すら得られないまま朽ちて逝く虚しさに負けて、その薬にすがっていたと思う。そうすればきっと、私はまた、同じ過ちを繰り返しただろう......必ず、その若者を二度傷つけた。だが、もうこれで“ヤツ”は帰らない“
”自分でとどめを刺せなかった私を、助けてくれて......化け物の私を殺してくれて、ありがとう“
たった一言”良い人生を“と、握手を交わしたテルの声。
小さな水溜りを見下ろしながら、葬られた記憶は土に還ったのだと、詩人が言っていた。あれは、いつかここに花を咲かせるかもしれない。だからその時は、答え合わせしに来よう。彼とテルの記憶が、どんな美しいものであったか。
もっとも、美しくない花などこの世には存在しない。そして、次に会う保証なんかもない。美しく優しい嘘を未来に夢見て、テルが少しホッとしたようで、それでいて寂しげに、そっと微笑み十字を切ったのだけれど。
僕はこの風景を、きっと死ぬまで覚えている。きっと。
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新しい命を胸に、彼女たちは強く生きていく決心を固めたようです。
彼女は、いろんなものを殺して、いろんな命を救った勇者。
※後日談
https://nana-music.com/sounds/055a7eec
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