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抱きしめられて気付いた。 先生は「僕」を抱きしめているのでは無いということ。 いや、実際に抱きしめられているのは紛れもなく僕自身なのだが、先生はきっとそうじゃない。 先生が抱きしめているのは僕ではない他の「誰か」や「記憶」の様なものなのだろうと悟った。 どれくらいの時間、そうされていたかは定かではない。 僕には随分長い時間の様に感じたけれど、実際はほんの数分だったのかも知れない。 ゆっくりと僕から離れた先生は涙声で「ごめんね、びっくりしたでしょう」と言った。 「先生、あの、どうしたんですか」そう聞くのが精いっぱいだった。 誰もいないリビングに通し、タオルを渡す。先生はびしょ濡れだったからだ。 「ごめんなさいね…ほんとうに」先生の表情を、僕はなんとなく見ることが出来なかった。 母親がいつもしているのを思い出しながら真似て淹れた緑茶を、先生に渡す。 先生は「ありがとう」と言い、「ちょっと長くなるけど」と前置きして、自分の身の上話を聞かせてくれた。 旦那さんや息子さんのこと。 独り身になってこっちへ帰ってきたこと。 学校での日々。 そして、僕のこと。 「蒼汰って言うんだけどね、私の息子。佐々田くんは蒼汰にほんとうによく似てる。顔とかそういうのじゃなくて、雰囲気とか、性格が」 僕は何も言えないでいる。 「だから、なんだかどうしようもなくなって、ここに来ちゃったの。驚かせてごめんなさいね。でもスッキリした。勝手な都合だけど、スッキリしたのよ」 先生はそれから何度もまたごめんなさいと言い、また学校でね、と儚げに呟き残して呼んでいたタクシーに乗ってウチを去っていった。 夕方帰ってきた母に「誰かいらしたの？お茶を飲んだようだけど？」と聞かれたが「僕が飲みたかっただけだよ」と返した。 それが、先週起こった出来事だ。 きっと、「雨の日」は特別な力を持っている。 人間の感情をどうにかしてしまうような、ほんのすこしの魔力を持っていると思うのだ。 それは「良い」とか「悪い」とかそういうもので括れるものではなくて、ちょっと「どうにか」してしまうレベルの。 僕は今でも覚えている。 先生の冷えた身体の感触や、右肩が生ぬるく濡れる感触。 知らないシャンプーの香り、冷えてるとは言え、人間の温かみ。 いつか読んだ本に「百聞は一見にしかず」という言葉が載っていた。 人から聞いたものよりも、自分の目で見たものの方が確かである、という意味合いの言葉だ。 僕はそれを、「感覚」に置き換えてみる。 見るだけではなく、触れたり触れられたりすることは、本当は言葉では表わせられないのだ。 抱きしめられ、衣類の布が擦れて肌を摩擦する感覚。 衣服越しにでも伝わる脈動や呼吸。 自分以外の誰かがそこにいるという感覚。 僕はそんな感覚を欲していたのだ、と気付く。 理論武装して見えない誰かと戦っている気分でいたけれど、結局はただの寂しがりやだった。 僕は頭の中のモヤが晴れたような感覚を覚えた。 そうか、寂しいなら寂しいと、先生のように感情を露わにしてもいいのか。 もちろんいつもそうあるのはどうかと思うけど、あんな風に雨の日で、暗い部屋で、ひとりぼっちの時くらい誰かの温もりを求めたって罰は当たらないだろう。 そんな風に思えたらなんだか心が軽くなったような気がした。 先生だって寂しいし、みんなきっとそれぞれの寂しさを抱えているのだ。 ★ ある日、僕はまた日直で、黒板に書かれた文章を消していた。 相変わらず飯田先生の筆圧は強かったが、ほどほどにして作業をすぐに終わらせた。 終わると先生の元へ行き、「先生、筆圧強いですってば」と声をかけた。 すると先生はニコリと笑い、「ごめんね、先生の悪い癖」と言った。 僕が「もう一つ悪い癖がありますよね？」と言うと、不思議そうな顔をして「なに？」と聞く。 「雨が降るとーーーー」 (おわり) 雨上がりのような雰囲気が出せたらなって思いながら書き終えました。 沢山楽しみにしてくれて本当に嬉しかったです。感謝。 解説？的なの書きました。よろしければ… http://tl.gd/n_1spqru5