失われた白昼夢
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失われた白昼夢
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Lost Summer Day Dreaming / 別野加奈
を聴いた時の脳内映像を活字に起こしたら、友人がそれにSEとBGMまで付けて朗読してくれた😭🤍
『失われた白昼夢』
水が嫌いである。蛇口という小さな穴から噴き出されるものであっても、風呂のような自分のけがれを洗い流すものであっても、私はそれを好きになれなかった。温度とは別の冷たさを孕んでいるように思うのだ。やがては皮膚に浸透し、全身を飲み込み、深い闇の底へ誘うような脅威を感じる。
だから私にとって海とは、恐怖そのものだ。世界丸ごと飲み込める程の巨大さを持ってして、戯れるかのように引いては満ちてを繰り返す、魔物のようなものだ。
その怪物に、彼女は恐れることなくずんずんと立ち向かっていく。サンダルを脱ぎ捨てたまっさらな素足で砂を掻き、湿った地を踏み締める。すかさず飛び掛る波が、細い肉を膝下まで飲み込んでいく。重圧に1歩後ずさりした彼女は、それでも凛と立っていた。潮風に煽られた艶やかな黒髪を邪魔くさそうに掻き上げて、自慢げに振り向く。
「ねえほら、大丈夫。怖くないからおいで」
無邪気に伸ばされた腕を、私は永遠にも思えるほど長く見つめていた。日焼けを知らない白皙が、水平線の煌めきと溶け合う様に見蕩れていたのだ。彼女と海の境界線が曖昧になっていき、少しずつゆっくりと、泡となって消える幻覚を見ていた。
一瞬、私は考える。その手を取れば、私も彼女のように海を愛せるようになるだろうか。
「...ううん、やっぱり私はここから見てるよ」
私の返答に、彼女は残念そうに笑う。気持ちいいのにな、とぼやかれたのを知らんぷりして、水の中ではしゃぐ彼女を見守った。裾の長いワンピースが濡れて重たくなっていく度、彼女の足を人魚の鰭と見間違えたのをよく覚えている。
そうして気が済むまで海と踊った彼女と日が落ち切る寸前に解散する日常を、私達は飽きもせず繰り返した。
――今になっても、私はあの時手を取らなくてよかったと思っている。
その数日後、彼女は突然行方を眩ませた。夏休みの宿題も、約束していた花火大会も、借りたままの日傘もそのままに、一人で海に沈んでいったようだった。
あの日履いていたサンダルと同じものが、少し離れた防波堤に虚しく投げ飛ばされていたのが見つかったのみで、彼女の肉や骨は欠片も見当たらなかった。周りからは遺骨の1つも拾えない事実に酷く同情されたが、私は妙に納得していた。彼女はやはり、泡となって海に溶けたのだ。
彼女が私を海に誘ったのは、後にも先にもあの日1度きりだった。今思えば、あれは一緒に死んでくれという極上の愛の告白だったのかもしれない。
5年が経った今も夏が来る度、私は白昼夢を見る。目を瞑れば忽ちあの瞬間に立ち返ることが出来るのだ。
夢の中で、私は彼女の手をそっと取る。瞬間強く引き寄せられて、バランスを失った2人の影が飛沫を上げて水中に沈むのだ。広くて冷たくて真っ暗な海の中を、彼女と私だけが手を繋いだまま漂っている。驚くことも藻掻くこともせず、お互いがそれを当たり前のように受け入れて。私達は音もなく、静かに世界から離れていく。
あれだけ恐ろしかった水は、たった一つの温もりが全て払い除けてくれるだろう。息苦しい肺も、徐々に潰されていく身体も、緩やかに揺蕩う彼女を前にすれば何ともないだろう。彼女と共に死ぬ選択も、それはそれで悪くなかったに違いない。
しかしそれでも、私は過去の選択を疑わない。
沈むにつれて泡になれるのは彼女だけだと知っているからだ。
徐々に輪郭がぼやけて水平線と交わる幻覚を見て以来、私はそれを本能的に理解していた。身体の半分を泡沫にした彼女の隣で、きっと私は泡どころか、魚にも貝にも人魚にすらなれぬまま藻屑となって沈んでいくだけなのだ。海とひとつになれるのは、海を愛し、海に愛された者だけに許された特権だ。
羨ましくはあるが、不思議と悲しくはなかった。水が苦手な私には、あまりに当然の摂理だと思えたからだ。何なら彼女にとっては陸こそが息の出来ない世界だったのだ。人間として生まれてしまったことこそが過ちで、本来あるべき姿に還っただけで。
瞼を持ち上げて、私は目の前の海を見据えた。足枷みたいなサンダルを脱ぎ捨てる。あの日の彼女みたいに乱雑に後ろに放り投げたら、1つ深呼吸をする。波の音が耳を擽り、つんとする潮の香りが私を脅かしている。2度瞬きをしてそれらを払い除けたら、ゆっくりと海に向かって歩き出す。昼間の熱を取り込んだ砂が少しずつ湿っていく感覚に、心臓が大きく唸りを上げている。負けじと1本踏み出せば震える足首を波が撫でては去り、撫でては去りを繰り返した。それでも私は逃げなかった。確かに海と触れていた。巨大な怪物の腹の中で、彼女みたいに2本の足で立っていた。
今でも私は、水が恐ろしい。蛇口という小さな穴から噴き出されるものであっても、風呂のような自分のけがれを洗い流すものであっても。温度とは別の冷たさを孕んでいる気がして、近寄り難いと思ってしまう。
ただ、海だけはほんの少し、好きかもしれない。
彼女が溶けた海は、昔よりずっとあたたかいはずだから。
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