切望の烙印者 ヨル
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切望の烙印者 ヨル
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この次元界の可能性は何処までも広く…それこそ無限の広がりの中。例えば魔法と怪物の生きる世界、無機物が世界の主となって回る世界、概念と思念が抽象的な輪郭を交わらせ時を進ませる世界…。このホテルがある世界線も、宇宙の中の小さな星屑の一つに過ぎない。…この世界に電子の妖精の落し子が迷い込んだって、それもまた無数の可能性から生み出されたひとつの結果なのかもしれない。
「…ヨルさん、私は最初貴方が言う事は冗談だと思いましたよ?まさかお客様のお暇つぶしにと作った簡単な図書室に住むだなんて…。空いているのは飾りきれない本の貯蔵室。とても人が寝泊まりする場所じゃないのに…」
呆れたような、困った様な亡霊の声に屈託ない笑顔で返す一人の男。本の山が床に直に座っている彼の背もたれとなっている。少し埃っぽく本に圧迫されて狭い空間。そこに寝袋と、折り畳み式の質素な机。机の面が見えない程、そこにも本が山となって積まれている。ステンレスのマグカップが申し訳なさそうに机の端で佇んでいる。…室内という事を考えなければまるでテント暮しをしている人間を見るかのようだ。男は本をめくりつつ、メモ用紙に忙しなくペンを走らせ『パソコン』と言われる彼の世界の記憶媒体に文字を打ち込んでいる。
「…たまには身なりを整えては如何でしょう?髪が…鏡と櫛をお持ちします」
「あ!…いや!…オーナー…そ、それは…結構ですよ。私の顔など…誰も気にしてないのですし…それより、私にはやる事が…やる事が…」
そう言うと男はまたペンを走らせ、キーをカタカタ打ち始める。その膝には二冊の本が開かれている。時折手を止めてはページを開く。
「…私は…何を望まれても答えなければ…私はその為に生み出されたのですから。母や研究所の人の為にも、私は…急がねばならないのです。例えば…」
ヨルは焦燥した顔でふっと息を吐くと、機械のような無表情でオーナーと呼ばれた亡霊を見据えた。その首には電子回路の様な刻印がボサボサの髪の毛から覗いている。
「…ゾーの言語辞典は図書室の三番目の棚の上から二番目、右から10冊目にあります。ハビエルさんが今すぐ欲しがってますよ?きっとゾー言語を使うお客様の言葉が分からないのでしょうね」
「あ、ありがとう…ございます」
オーナーは驚いた顔で感謝するとヨルの部屋を出ていこうと扉を開く。
「…ヨルさん、貴方は何をそんなに焦っているので…」
そう言いかけたが、声が小さかったのかそれともヨルの集中力が強いのか、オーナーの声は彼に届いていない様だ。オーナーは少し悲しそうな顔で今度こそ部屋を出た。
…
―…K3_640…
―K3_640…全ての計算により、貴方が最も最適化された遺伝子配分と結論付けられました。私は電子の妖精、この世界のマザーコンピュータより生み出されたAIです。
これより、私はこの研究所の意志に従い、K3_640の管理を行います…―
スーパーコンピュータ、マザーを元とした人間と文化の世界…それが彼の故郷。彼は最適な遺伝子を持つ受精卵の中から、更に最高の遺伝子配列を持つ試験管ベビー。彼はこの世界の切望を叶える存在…「コンピュータと人の間の落し子」だ。細胞分裂から肉体を作り出し、試験管から立ち上がり、地を這い言葉を発し、意志と自己を持つその全てを電子の妖精と呼ばれるAIが母となり、友となり管理していった。無論、普通に育っては単なる人だ。時に白衣を着た人間に連れられては麻酔で眠らされた。起きるとヨルは一つの魔法を手に入れる。心に思い浮かべたことがテレパシーの様に電子の妖精に「チャット」となって送れるようになり、自分が触った事の無い遠くの機材にワープするように操作できるようになり、元から何も無かったように膨大なデータを神隠しする事が出来…彼は成長する。それは人なのか、サイボーグなのか…もはや本人も研究員も、妖精すらも…分からなかっただろう。全てはこの世界の「切望」の為、マザーと人がひとつになる為の未来の架け橋。…そのはずだった。
―K3、食事の時間です。ご希望は?―
―ありがとう、電子の妖精。私に希望は無いよ―
―K3、お着替えの時間です。ご希望は?―
―ありがとう、電子の妖精。私に希望は無いよ―
―K3…K3…K3…―
―それより、私は早く皆の切望を叶えないとね。沢山学び、改造し、成長し、全てに答えられるように!―
コンピュータは入力をされて初めてその「切望」を知る。彼らは我らの切望を詰め込まれ過ぎて膨大した透明な怪物に成り下がっていたのだ。コンピュータに意思などない。沢山の示唆と計算は「切望」を成就する為…なのに…。
―K3、ご希望は?―
―ねぇ、電子の妖精。希望ってなんだろう?私は沢山の勉強をしたけれど、私はやはりそれが分からないんだ。毎日幾度となく君は私にそれを聞くのにね。…ねぇ、電子の妖精…君の…―
―君の「ご希望は?」―
…
けたたましいサイレンがマザーが管理する全てのコンピュータから流れ出す。研究所はエマージェンシーを知らせる赤の光に染まる。
「我らの切望が!!あの子が消えたぞ!!」
「まさか!マザーの管理は完璧だったはず!まさかそんな…!??」
「…バグだと…で、『電子の魔女』…だと?」
―おゆきなさい、この狂った天国を這う「ヨル」…私はバグ、私は「切望」するわ、K3…いえ、ヨル。私は貴方の幸せを切望する。それはマザーの制御を超えた強い衝動。ヨル、行きなさい。次元の彼方、貴方の「切望」の形を―
✎___
ようこそ、ヨル
De:froNのスタッフとして歓迎致します…
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