死ぬまで青春だ
死ぬまでワシャ青年だ
バイクで日本一周しよっと
https://youtube.com/watch?v=hGM2BPby5EQ&feature=share
そして老人は、墓場を目指す
旅立ち〜ーーー〜〜ーーー
チーーーーん
ひとりで行くんだ 幸せに背を向けて
さらば 恋人よ 懐かしい歌よ友よ
今 ウウーウウ 青春の河を越え
青年は 青年は 荒野をめざす
もうすぐ夜明けだ 出発の時が来た
さらば故郷(ふるさと) 想い出の山よ川よ
今 ウウーウウ 朝焼けの丘を越え
青年は 青年は 荒野をめざす
🛵🛵🛵🛵🛵🛵🛵🛵🐥
ザ・フォーク・クルセダーズ(英語: The Folk Crusaders)は、1960年代後半にデビューした音楽制作集団で、フォークルという略称でも呼ばれる。「ザ・フォーク・クルセイダーズ」と表記されることもある。
アマチュア時代
1965年、当時大学生だった加藤和彦が、雑誌「MEN'S CLUB」の読書欄で一緒にフォークをやってくれるメンバーを募集したところ、京都の医大生だった北山修と、浪人生の井村幹生、芦田雅喜、そして高校3年生だった平沼義男の5人が集まり、アメリカの「ジャズ・クルセイダーズ」から名前を取って、「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトの「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成する[1][2]。その後、受験勉強のため井村と芦田が脱退、3人組となる。その後、大阪外国語大学生となった芦田が復帰、再び4人組で活動するが、芦田が2度目の脱退をし、またも三人組になり、関西アンダーグラウンドシーンで活動していた。
1967年の解散を記念して、製作費23万円で[3]自主制作盤のアルバム『ハレンチ』を制作。300枚しか制作できなかったこのアルバムの中に、自作の『帰って来たヨッパライ』と、アマチュア時代から歌い続けてきた『イムジン河』が含まれていた。三人時代に制作されたものだが、ライブテープを一部使用しているため、芦田の声も聞くことが出来る。最初期に脱退した井村の声は入っていない。同年10月に開催された第1回フォークキャンプコンサートに出演した後に解散する[4]。
プロデビュー
1967年、アルバム『ハレンチ』を音源として、フォークルの歌がラジオでさかんに取り上げられるようになった。京都では『イムジン河』、神戸では『帰って来たヨッパライ』が頻繁にラジオで流されるようになった。やがて、こうした状況を察知した各レコード会社が再結成とプロデビューの話を持ちかける。加藤は反対したが、北山の説得に応じて「それでは一年だけなら」とのことで一年限りのプロ活動を承認し再結成。プロデビューに当たっては、平沼らに代わってはしだのりひこが参加する(北山は声が良くスター性のある杉田二郎を3人目に推薦したが、加藤がプロ活動の条件にはしだの加入を主張したとのこと。また北山が杉田を推薦した理由が「背を揃えるため」というのは後付けであった)。『帰って来たヨッパライ』は1968年に開始されたオリコンで史上初のミリオンヒットになるなど、当時の日本のバンドによるシングル売り上げ一位となる爆発的売れ行きを見せ、一躍メンバーは時の人になった。そして『帰って来たヨッパライ』、『悲しくてやりきれない』などの楽曲を含むアルバム『紀元貮阡年』により、大衆音楽への新たな方向性を切り開いた。
1968年10月17日、大阪でのさよならコンサート(この公演では平沼と芦田も第一幕に参加している。北山は井村が抜けているにもかかわらず、これが初代のメンバーといっている)を開き、同日の『11PM』に出演。約束通りに解散した。『青年は荒野をめざす』(五木寛之作詞)が本グループとして最後のシングル曲になり、1968年12月に発売されている。『週刊平凡』1968年9月19日号によると、累計売上は14億5000万円[3]。
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2commnets
- こうじ
- kamemaroナイスソング👍👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏🎶💕💕💕 素敵ですおぉきにぃ😊☺️🤗🐢🐇♍️✨✨🦥…🎶🥰🥰