🎤≪歌旅日記≫🏃 【31】
◆訪問地
沖縄県那覇市 首里城
今回のテーマは、「琉球古典音楽をモチーフとした本楽曲になぞらえて『琉球王朝の雅』を訪ねて失われた首里城を探す旅をして、宮沢氏がナレーターを務める『時の首里彩画』をリスペクトした動画にて本楽曲を4部に分けて表現する」です。
第4回目の本サウンドは『琉球王朝の栄華と威厳』として、琉球王朝の栄華と威厳を象徴する首里城を半年間に渡り訪問。また、目的緊急事態宣言により有料区域への入場が規制されるなどの停滞期間があって思った以上に長引いたが、サウンド作りはもっと長引いたのでちょうど良い終着点となった。
また、このサウンドの製作中に我が愛猫マロンが天に召されて、その供養の為に丹波哲郎『大霊界』モチーフの黄金の神殿の祭壇を造ろうと思い立ち、その際のイマジネーションが「失われた首里城の名残を探して復興を祈願する」という今回の旅のテーマとリンクして、「黄金の首里城」を最終目的にするに至った。
なんのこっちゃだが、マロンへの良い供養になったかと思う。
『時の首里彩画』
https://youtu.be/Nv5FgKlxYVQ
宮沢氏がナレーターを務める沖縄の地方局のミニ番組。現在、シーズン2が放送中。
それでは『時の首里彩画』の宮沢氏ナレーション風に。
「古の調べが響き渡る時、その絵は描かれる。ニヤの首里彩画」
「最終回は『墓標』の後部の後半の調べに乗り、琉球王朝の栄華と威厳の色を探しにいきます。」
≪歌旅について≫🏃
「いつでも行ける首里城」だからこそ、これまでそんなに行ったことはなかった。しかし、一昨年に首里城本殿が燃えてしまった時に心の拠り所を失うような深い喪失感に見舞われた。
2026年に再建されると言うが逆に、首里城本殿の無い首里も30年以上振りである。さらにコロナ禍という未曽有の事態でもあり、もう二度とないこの時に首里城=私のアイデンティティと向き合うのも悪くないなと思った。
2019年10月31日の午前2時頃、首里城本殿から火が上がり明け方には消失した。その翌日の11月1日に宮沢氏は『めんそーれ オキナワワールド』というライヴが予定されていた宮沢氏はかなり困惑したそう。めでたく明るいライヴなのに、沖縄文化にとって最大の損失が起きたばかりである。
その日に沖縄から来ていたドラマーの末吉ヒロトさんは「正直、普段は首里城とか考えないのに、燃えた時の悲しみ、こんなに心に首里城があったんだっていうことに自分でもびっくりした」と宮沢氏に話している。沖縄県民全てがまさにそうだったと思う。
それから首里城本殿の復興に向けての動きは、基金なども含めて80年代の時とは違った早い速度で進行している。宮沢氏もシンポジウムに参加して意見を述べるなど積極的に参加している。宮沢氏もまた、東のアザナからの本殿火災後の首里城を眺めながら「これはいましか見れない景色だから、これは覚えていかないといけないね」と話している。
その本殿跡地ですら入れない未曽有の緊急事態宣言下の首里城を体験し見届け表現のイメージやコンセプトを練るべく、前回③の弁財天堂・龍潭池と同様に首里城の無料区域の外周部分から守礼門までは朝昼晩・真夜中・早朝とひたすらに通った。
本殿を失った事に加え、さらに新型肺炎の蔓延による緊急事態宣言で有料区域が臨時閉館となった首里城は、だいたいどの場所に行っても目に入る人は2~3人。
その状況ゆえに、琉球王朝時代の首里城にタイムスリップしたような感覚があった。そんな中でも心地良い挨拶をしてくれたスタッフの方々のチムグクル(心からの思いやり)には古式衣装を着て首里城で働く事の誇りを感じた。
7月に緊急事態宣言から蔓延防止等重点措置に変わって有料区域が開放されていた時私は、県立博物館・美術館への訪問を優先していたのたが、あっという間に緊急事態宣言に戻ってしまい有料区域の本殿の復興事業の場に行く機会を逃してしまった。
それでもいつか緊急事態宣言が解除されるまで、納得のいく撮影をしたいと思い、明け方も夕方も旧盆の夜も台風の日も無料区域を訪問して撮影していた。
特に今年の沖縄の夏は例年になく雨が少なかったので、雲のまったくない真っ青な空の下の首里城公園を堪能することができた。こんな絶好の観光ロケーションなのに訪れている人がほぼいないのはもったいなくもあり、私にとてはまさに奇跡としか言えない撮影環境であった。
そんな訪問撮影の日々の中、愛猫マロンの死をきっかけに「黄金の首里城」を探すようになった。実はそれを手に入れられる場所の目星は付いていた。そこは県立博物館・美術館の売店。しかし、終わりの見えない緊急事態宣言中の臨時休業で博物館には入れない。
ならばと、国際通りのお土産屋をほぼ全店巡って捜索した。しかしながら、私が見た「黄金の首里城」は全店舗のお土産屋で取扱いが無かった。悲しい事に、首里城を消失した日からお土産屋から首里城グッズは姿を消してしまったとのこと。
その後もリゾートホテルの売店や那覇空港のショップを捜索したが、「黄金の首里城」依然に琉球王朝に関するお土産品さえもたまに見つかる程度だった。
もう緊急事態宣言が解除されるまで待つしかないと決めて、悔しいから那覇空港の国際線ロビーにあるアルベルト城間さん寄贈のストリートピアノを弾いて帰った。わずかに開いているお店以外は完全無人の中でのロビー演奏は、もう二度とない貴重体験であった。
10月になってようやく緊急事態宣言が解除されて、首里城公園のショップやら有料区域に入れるようになった。首里城関連のグッズはいまや首里城公園か県立博物館でしか入手できないのは悲しい現実だが、念願の「黄金の首里城」の置物を購入することができた。いままではそこまで意識しなかった「朱と金」にこんなにワクワクするとは。
そこからサウンド製作がやや停滞した事が幸いして、11月の首里城復興祭に行くことができた。有名な琉球古典音楽の『御座楽』を期待したがあれはやはり新春の宴のみということ。替わりに県立芸大の生徒さんの伝統音楽と舞を堪能できた。
そして、念願叶っての、琉球国の国王と王妃の拝顔を観覧できた。例年ならかなり困難な最前列も何度もゲットできて、とても良い動画が撮れた。
これで撮影訪問は終わりかな~と思っていたが、なんと宮沢氏がみやんち9周年の恒例版画で首里城と三日月の素晴らしい版画を発表したので「月と首里城」をテーマに訪問撮影を続行。
せっかくなので10月31日の午前2時の月と首里城の定点撮影を使用と調べたら、なんとその日の月齢が宮沢氏が掘った版画の三日月の月齢と逆の形の有明月である事がわかってテンション上がる。そこまで考えていたか、宮沢氏。流石だぜ!(なわけない)
そして10月31日、深夜二度寝して午前4時に首里城の久慶門に到着。予定より2時間遅れたけれど、その時の月の高さと久慶門の位置関係が撮りたかった構図にバッチリ合致してて軽くガッツポーズ。スタンド固定で5分おきに定点撮影開始。
1時間ほど撮影した時、唐突にいかつい装備の消防士がやってきて「いまから消防訓練をします」と声を掛けられた。事前情報をほとんど入れない私の歌旅だからこそのサプライズにて、年に一度の首里城の大規模火災訓練に立ち会うことができた。
その翌月、首里城火災で残った赤瓦の漆喰はがしボランティアが最終募集になっていたので、この半年間の旅の締めくくりとして参加。「失われた首里城を探す旅」が最後には「いつか復活するだろう首里城の礎に私の想いを添える」になった。
この歌旅を企画する前はこのボランティアは知っていても参加する意欲はなかったので、長い旅を振り返ってみてそれは行動意識の変化の旅でもあったなぁと思う。
点と点が繋がり線となり、色が着いて絵になっていく。これこそが『時の首里彩画』であると私なりに納得した次第である。
≪愛猫マロンの弔いについて≫🐱
6月の『島唄 2002』のアップ後からマロンがくしゃみをするようになった。それがなかなか治らず鼻水まみれの酷い状況になったのを見て、ヤバイとようやく思い動物病院へ。元々持っていたネコ風邪の因子が湿度により表に出るようになったのが原因とのこと。もちろん推定15歳であるから、もうその時が来たのだと確信。
前にnanaもSNSも全て休止して人生の挑戦に集中していた期間のもう一つの目的は、天寿を全うする時が近づいているマロンとの向き合いの時間を増やす為であった。
死別してから「もっとちゃんと接すれば良かった」と悔いを残すならいま反省して変われよバカ!ってことで、スマホを触らずマロンを撫で、画面を観ずにマロンを見た。それを実行してきたからか、私も落ち着いて看取ることが出来た。
マロンが息を引き取った朝、ペット供養のお寺に電話して葬儀・火葬の時間を予約したが2時間ほど間がある。マロンの亡骸の傍で、私は伴奏製作を始めた。「面白いだろう」とか「衝動的にやった」とかでなく、今日この日の事を音に残そう、想いを込めて音楽を奏でる事で見送ろう、たぶんその方がマロンにとっても私にとっても良いはずだと直感的に。
そして、たまたまであるがその日までの伴奏製作の段取りがシンバルと鉄鈴の録音で、シンバルの音で花が舞い、鉄鈴をおりんの如くして経を上げる中を、マロンが黄金の神殿への階段を昇る…そんなイメージが浮かんでいた。
あの自然と浮かんだ雲の上の黄金の神殿のイメージはなんだろうと自身の感覚の中を探していると、私が持っている死後の世界のイメージ=大切な存在が安らかに召されて欲しい世界=天界=霊界=丹波哲郎?と思考ダイブの先で辿り着いた。
名俳優の丹波哲郎のもう一つの経歴として霊界研究家というのがあるが、80年代バブル期に『丹波哲郎の大霊界』という映画が公開されていた。当時にそれを観た私の潜在意識に、マロンは「地上の肉体から離れて黄金の国へ旅立った」という認識をもたらしたのかと自己判断。マロンは家猫として飼っていたゆえに外に出すことを咎とされていたから、これからは行きたいところへ自由に。
マロンの亡骸と共にお寺に行ったが、葬儀の場がこれまた桐で作られた清らかな場所で、祭られている桐から掘られているだろう仏様も照明によって柔らかい金色に見える。
金の葬儀場にて、花を添えられたマロンの亡骸を優しく見つめる金の仏様、そして立ち上る白檀の線香の煙と香り。「あぁやっぱりそうか、黄金の国へマロンは旅立つのか」と不思議な納得をした。
葬儀の後、マロンの骨壺を祭る祭壇を有りものを用意するのではなく、黄金の祭壇を手造りしようと思い立つ。その時に、幼き日に観た『大霊界』のアジアンな黄金の神殿と、県立博物館の売店で見た黄金の首里城の置物がリンクした。
そして、本楽曲の表現においても、元々持っていた「黄金の輝き」という印象にさらに、「マロンが召された黄金の首里城を表現の目標にする」という方向性が加わった。
それから「失われた首里城を探す旅」と並行して「マロンの黄金の祭壇を造る」という目的も実行し、部屋のカーテンをイエローに変更したり、部屋照明に暖色系を追加したりもした。
緊急事態宣言が解除されて再開された首里城のショップで無事に黄金の首里城の置物も購入でき、ついにマロンの黄金の祭壇が完成した。本楽曲をこうしてアップすることで、愛猫マロンの供養としたい。黄金の神殿でまた会おう。
≪動画について≫🎥
冒頭の仏様は、マロンを葬儀を行ったお寺様。本楽曲とは関連しないが、私の表現のマロン供養においては重要なスタート。マロンの祭壇の香炉の灰を葬儀をしたお寺から分けて欲しいと申し出た際に伺った時に、許可を頂き撮影。
瑞泉門、園比屋武御嶽石門、守礼門と、雲が一つもない夏の日に撮影したので、なんだかCGみたい。
次のこの鐘は首里城にある万国津梁の鐘のレプリカ。②の動画に出てくるのが、県立博物館にある本物の万国津梁の鐘。本楽曲には2回「鐘」を、琉球王朝の栄華の象徴である万国津梁の鐘で統一できて良かった。
③の動画の時に「河」の表現で悩んだように次は「海」で悩んだが、首里の御嶽や樋川を巡る中で龍樋を「海」にする事を思いつく。
首里城復興祭での琉球古典芸能の演奏会から琉球国の国王と王妃、そして黄金の首里城。ここまでのシナリオを踏まえて②の動画を作成しており、②が琉球王朝の威厳の痕跡であれば今回の④は現代に甦る琉球王朝の威厳というコンセプトにて「永遠の雨」を表現。
その後のストリングスからの三線の後奏部は、当初は宮沢氏の「三日月と首里城」の版画に繋ぐ為に夜の首里城でまとめていた。しかし、「朱が足りぬ!」と納得に至らず、追加撮影をして朝~昼の首里城とした。その中で木曳門からの背を向けた朱い着物の女性のカットは私がお願いして撮らせてもらった。これはとても美しい写真なので、ボツにしなくて良かった。
そして6分間隔で撮影した有明月の写真を徐々に照度を上げて繋げて、最後に宮沢氏の版画で締める。この版画の三日月と首里城の位置関係と、有明月と久慶門の位置関係が合致できたのは、日付指定かつ寝過ごして到着した午前4時から消防訓練の始まる午前5時の1時間の撮影という点で本当に奇蹟だった。
最後に、光のエフェクトを追加。「焼失した首里城は天界で黄金の神殿となった」というシナリオにて、私の『琉球王朝の雅』を訪ねて失われた首里城を探す旅を完結できたかと思う。大納得。
≪伴奏について≫🎼
今回の企画の最大の聴かせ場である後部後半の伴奏製作の作業目標は、「この楽曲の伴奏の土台を作ってくれたdaiさんへのリスペクトを込めて、最後の仕上げはdaiさんにベースコラボを依頼したい」「快く依頼を受けてもらう為にも、そこまでは完ぺきな伴奏製作をする」であった。
「真の敬意とは行動によってのみ示される」というのが私の信条である。
まず、前回の③のkanakoさんのストリングス選定の際に惜しくも次点となった強めの低音ストリングスが、kanakoさんに依頼していた「黄金の鈍い輝き」の音色にピッタリだったので今回の④の土台として採用。
そこからはDTMアプリを使用したドラムパターン作成。正直なところ、原曲とは異なり早いペースで繰り返すリズムとなっている。言い訳として、使用しているDTMアプリのリズム幅に限界があること、私の聴き取り力が稚拙であること、などがある。
『沖縄に降る雪』のブラジリアンドラムのパターンや音色を参考にドラムラインを完成。実は、この作業が上手くいったのは、daiさんがきっちりとしたテンポでピアノを弾いてくれていたのが大きい。それが無かったら手打ちしか道が無くなるので、今回は奇跡的に上手くいったと感謝したい。
次にmusiclineアプリによる笛の表現。kanakoさんに耳コピしてもらった音階を基に、ピッコロの音色で重ねてみるとこれがなかなかマッチしている。さらにフルートに音色を変更して重ねて立体感を出す。それでも「光」が足りないと思ったので、ピッコロのoctoberエフェクトを足した。原曲の笛高音の「金の毛筆」みたいな感じが出せたのではと思う。
その笛表現の翌日にマロンが息を引き取り、マロンの亡骸の隣でシンバルと鉄鈴の録音。本楽曲の返歌として『沖縄に降る雪』を捜索したという宮沢氏の創作の歴史をリスペクトして『沖縄に降る雪』の伴奏製作の時に買った鉄鈴をここで使うと決めていたが、まさかマロンを見送るおりんになろうとは。
マロンの火葬後に帰宅してすぐに今度は後半の笛表現を前半と同じ作業で音量半分で録音。笛とシンバル・鉄鈴を理想的に入れられた事で、本サウンドについに「黄金の光」を宿すことができた。そして強まった理想成就への想いは、kanakoさんへの次なる無茶な依頼へと繋がる。
本サウンドにおいて、『墓標』が『墓標』らしくある為の重要要素として「琴」がある。この琴を電子ピアノで表現して欲しいと依頼した。ただ鍵盤を打てば良いというわけではない。指を「弾く」を指で「叩く」で表現しなければならない。かなり厳しい要求であったが、見事、鍵盤で琴を表現してくれた。これはセンスと情熱あればこそ。素晴らしい。
その素晴らしい琴表現を受けて、いよいよ最後の三線パート。ここからはdaiさんの道案内はなく、私とkanakoさんで歩んでいかねばならない。kanakoさんとの協議の結果、原曲よりももう一回しして90秒きっかりまで三線を弾くことにした。ピックで弾いている事と絃へのアタックが強すぎた事で、絃への接触と弾きの2つの音が鳴ってしまっているが、このテイク以上の演奏ができないし、直観的に「daiさんがなんとかしてくれる」と感じたので続行。
そしていよいよ本サウンドで最も重要な最後のストリングスパート。ここはまさに「黄金の輝き」の後光。ここが決まるかどうかでこのサウンドが天に昇るかが決まる。楽譜もないし、音の設計図も自分達でやらなけばならない中、kanakoさんは必至で音を探して紡いでくれた。ほんの10秒弱の演奏だが、完成するまでに1ヶ月を要した。よくぞ、ここまで喰らいついてくれた。
で、次に「溢れる海になり」「残された日々に」などの歌の終わりに奏でられる琴の速弾きを入れたいと相談した。kanakoさんの琴ピアノ表現でやるか、私のDTMアプリでやるかの議論になったが、機械に打ち込んでやるのは無理があった。そもそも音階とかトレースできないし。kanakoさんの電子ピアノの琴の音色にも限界がある。
そこでkanakoさんから「琴の音色をピアノで表現するのはどうか」という素晴らしい提案があった。kanakoさんとしても思い切った提案であったこともあり、ここは二人で協力し、kanakoさんが琴ピアノのトラックを作り、それを私が各部ごとに録音。予想以上に素晴らしい琴の輝きを放つことができた。
ここまで来たら絶対に成功させたいとストリングス前のシンバル録音に挑む。スタジオにて先端を包帯で巻いた木琴のスティックで自らドラムシンバルを叩く。それをトラック録音する。
トラック録音の際にインターフェースのゲインつまみを調整してよりドラマティックに変化させた。しかしどうしても唐突感が出るので、musiclineの逆シンバルの音色をシンバルの前に入れて音の滑走路とした。
半年間かけてついに完成した私とkanakoさんによる理想的伴奏を、いよいよdaiさんに託した。ベースインだけでなく、三線と共に奏でられる琵琶をギターで表現してもらうオマケ付で。
そうして出来上がった最終完成の伴奏は、琵琶ギターの雰囲気の良さもさることながら、ベースが私の欲しかったポイントを全て抑えていて本当に感動した。ストリングス部のベースの余韻など、この楽曲への想いあればこそ。この楽曲の伴奏製作にかけた半年間だけでなく、この楽曲と出逢ってから今日までの22年間の感動が報われたのであった。
≪歌入れについて≫🎤
マロンが天に召された数日後、マロンの冥福を祈り歌のトラック録音を行った。その表現は過去最高のものとはなったが、トラック録音の弊害か歌声の僅かなノイズが気になる。
だが、それ以上の表現が出来る自信もなく、かつ、マロンの供養という意味ではこの時の歌声を生かすのが最良だろうとして、本番はその歌トラックを使用する予定ではあった。
しかし、つい先日に宮沢氏の本楽曲についての新たな情報を手に入れ、そこに記されれていた宮沢氏の言葉に突き動かされる。
「作り始めて2年かかりましたからね、完成するまでに。その間に5回以上は歌い直してますから、苦労した、かな。何回歌っても、もっとうまく歌えるんじゃないかと思える時が、一番苦労しますね。絶対もっとよく歌えるはずだって思っちゃうと、今歌った歌が陳腐に聞こえてしまって、何回もやり直しさせていただくと。」
そう、そうだよなぁ。この楽曲はそうだよなぁとしみじみ。創った人がそうなんだったら、そりゃ仕方ない。ということで、大晦日に最後の歌入れを敢行。ほんの一部だけ音割れがあるけれど、これがいまの私の出せる及第点。
最後の「よ〜お〜」がやや小さいのが気になったので、ここだけアリーナ100%ユニゾン重ねてる。もうここまでやれて悔いはない。
素敵な伴奏にて歌わせて頂きましたdaiさん、また、共に伴奏を製作してくれたkanakoさん、ありがとうございます。
daiさんから始まりdaiさんで終わる、それ自体がこの楽曲の「三線から始まり三線で終わる」形式へのリスペクトでもありました。年末のお忙しい時期にも関わらず、協力してくださり誠に感謝です。
私が“縁”と“機”の導きを信じるあまり行動が停滞して待たせることになって、期待のタイミングがズレることしばしばで。とはいえ、最高のタイミングは「早い者勝ち」の中だけに非ず。千里の道を一歩一歩進んだ先に、その旅がその者の人生において永遠の価値を持つものとなる事を信じています。
≪最後に≫🚶🔔🌊🌧️
長かった墓標の表現企画もようやく終了。当初予定は『島唄 2002』の前で、次は8月で、10月になっていよいよ大晦日のアップとなった。でもそれで良かった。マロンの弔いの想いも込められたし、首里城復興祭にも出会えた。
そして、大晦日イブの30日の宮沢氏のラジオ『琉球ソングブック』にて、『沖縄に降る雪』を流してくれて「ブラジル北東部のリズム、ブラジルと沖縄がミックスされた宮沢らしいサウンド」と紹介していた。あぁ、私はそのブラジリアンリズムを聴きまくってこのサウンドを創ったのだと、いまの振り返りと重なって嬉しかった。
その前日の29日はマロンの月命日にて、普段は収納状態の祭壇を展開してマロンの遺影に手を合わせた。これで良い供養になったかな。皆様にとっても私にとっても、波乱万丈な2021年が終わろうとしている。来年2022年は私にとって過去最大にまったく先の見えないスタートとなる。なので、一日一日の歩みを見つめて生きるしかない。表現あればこそ。
良いお年を。
※トップ画像は、マロンの祭壇と遺影。
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Comment
4commnets
- ニヤ☆ゆっくり聴きnanaさせて下さい〜💦☆
- kanako音色作りをすることにこの上ない喜びを感じる私にとって、ものすごーくやり甲斐、楽しさのある音作りでした! 最後の数小節のストリングスの音色に納得できるまで、一ヵ月😂 しかし、宮沢さんでもこの曲を作り上げるのに2年を要したのだから、ちょっとやそっとの取り組みでできるはずないじゃないか! という気持ちで頑張りました。 また、マロンちゃんの弔いの気持ちを兼ねたサウンドだったので命の重さの分だけ熱が入りました。 daiさんの素晴らしいベースが入った時は感動と感謝の気持ちでいっぱいでした。 このサウンド作るのに、何度喜びを感じたか分からないなあ。 色んな想いがあるサウンド作りでしたが「頑張って良かった!!!」って感想が一番だなあ。 ニヤさん、daiさん、音楽の楽しさ喜びを共有できたこと、心からありがとです!
- ニヤ☆ゆっくり聴きnanaさせて下さい〜💦☆
- dai(だい)2号ついに完成形に辿り着きましたね☆ 今年最後にこのような豪華コラボに関われて嬉しいです!!!! ニヤさん、kanakoさん、ホンマにありがとうございました☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆