【14】竹田の守り子唄(原曲)
古都(こと)
【14】竹田の守り子唄(原曲)
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京都府伏見区竹田。採譜多数。歌詞多数。ここでは音楽之友社『はじめての篠笛』横山政司著より。「守りも嫌がる盆から先にゃ」の歌詞で始まる有名な歌はフォークソングとして普及したもの。「雪もちらつくし」のサビ部分は「民謡の旋律じゃない」と改作が取り沙汰されましたが、原曲はちゃんと活かされています。五音構成【レミソラシ】譜面キー【G】
■歌詞1
ねんねねんねと ねた子はかわい
おきて泣く子は つらにくい
■小史
ここで唄った旋律は、現在「竹田の子守歌」として知られている歌の原曲の一つですが、これは1960年代初期に、作曲家の尾上和彦氏が竹田在住の女性から採録したもの。尾上氏はこの原曲をベースに舞台「橋のない川」の音楽として「竹田の子守歌」を発表。これが1970年代フォークグループ赤い鳥の歌唱などで大ヒットしました。著作権協会は尾上氏の作品を伝承歌と判断したため、尾上氏補作の旋律が竹田に伝承されてきた旋律と誤解されたまま、今日に至っています。
この原曲を唄った女性は少女時代は宇治へ子守奉公、夫に早く死なれてからは料亭の仲居、男に混ざって土木工事、炭鉱や関門トンネル工事にも行ったとのこと。唄が好きで三味線が上手だったという彼女は各地の民謡にも明るい人でした。この原曲は竹田に他に唄える人がいなかったため、この女性が竹田以外の地で覚えた旋律か、歌が好きだった彼女の創作では──という見方もあります。一方、竹田には全く異なる旋律の子守唄(歌詞は類似)が伝承されていました。こうした背景から『日本わらべ歌全集15』には、譜面(A)(B)=竹田伝承の旋律、(C)(D)=前記女性歌唱の旋律、(E)=尾上氏補作の旋律(現行の竹田の子守歌)という計五譜面が紹介されています。
■歌詞2
守りもいやがる盆から向こうにゃ
雪もちらつく子も泣くし
この子よう泣く守りをばいじる
守りも一日やせるやら
はよも行きたやこの在所こえて
向こうに見えるは親のうち
来いよ来いよと小間物売りに
来たら見もする買いもする
久世(くぜ)の大根めし吉祥(きっしょ)の菜めし
まだも竹田のもんぱめし
盆が来たとてなにうれしかろ
かたびらはなし帯はなし
(伏見区竹田内畑町)
歌詞もヴァリエーション多数。歌詞2は全集15プラスαより。まとめると現行「竹田の子守歌」は:①歌詞は竹田に伝承されてきた守り子唄。②旋律は竹田の伝承曲ではない可能性も──となるようです。(参考文献。右田伊左雄『子守と子守歌〜その民俗・音楽』東方出版、ウィキペディア他)
【盆】①守り子の一時帰郷。②子守奉公の年季明け。【在所】被差別部落。京都での呼び方。【吉祥】吉祥院(きっしょういん)【まだも】まださらにひどい、まだまし、どちらとも解せる。全集15では「またも」【もんぱめし】米に豆腐のおからを混ぜた飯。全集15では「もんばめし」
■最後の守り子唄
現行の歌と伏見区竹田との関連を問う作業は専門家に任せます。竹田の女性が唄ったという原曲は、尾上氏の補作部分がなくても民謡の枠をこえた珠玉の旋律。それが子守奉公の経験もある方の創作なら、これは現代の、それこそ最後の守り子唄になります。時代をこえて愛された「竹田の子守歌」は、日陰扱いされてきた守り子唄(愛の子守歌には相応しくないと捨てられた歌が多数)の集大成として生み出された傑作、守り子たちが最後の力で現代に響かせた名曲──だったのかもしれません。
■蛇足
多くのシンガーが歌っていますが、私が聴いた中では、若き日のオフコースの二人(小田和正&鈴木康博)が、ライブで歌ったバージョンが、印象にのこる美しい歌唱でした。「秋ゆく街で〜ライブ・イン・コンサート」1974年に収録。
■古都(こと)
京都は昔から京の都。旧名とかあれこれ探すより、川端康成の名作「古都」から、命名は古都(こと)。女の子の名前らしくないかな…?
■歌唱コード
(G)ねんね(Am)ねん(C)ねと
(Em)ねたこはかわ(D)い
(Em)おきて(G)なく(Am)こは
(C)つら(Em)にくい
■補足(2022/04)
上の文章はサウンド投稿時(2020/09)に書いたものですが、その後得た知識から冬濤は、この原曲もやはり竹田で守り子たちに歌われた唄──と感じるようになりました。例えば下記文献には伝承者(岡本ふく氏)の素朴な思い出が次のように語られています。根拠はありませんが、その言葉が真実と感じた次第です。「守りもいやがる……こんなこと言うてな(子守り同士で)喧嘩してたんや。みんなでワーワーやってたんや」(『竹田の子守歌~名曲に隠された真実』p16/藤田正著/解放出版社/2003年)。参考【M12】
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