「夜明け」
秘密結社 路地裏珈琲
「夜明け」
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全てがぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまった屋敷の中に、もう魔法はかけらも残っていなかった。
画材の匂いが立ち込める廃墟の階段を、二つの影が足早に過ぎてゆく。
「...美子、来い。代わりにお前が前見てろ」
「悪い、そうさせてもらうよ。草履が塗料にへばりついてやりにくいったらないや」
軽々と美子を抱えあげ、スズキが目指す先は、大本営。
オカダのアトリエである。おそらくはそこに彼が居て、最終決戦を待ち望んでいる。または、最悪の場合、サトウとフリードに何らかの危害を加えようと、お取り込みの最中かもしれない。どちらにせよ、一秒でも早く到達したい。
美子にペチペチと平手で鞭打たれながら、息を切らして辿り着いた、それらしい部屋の前には、すでに先客の姿がある。
「おい、兎こ!お前、中は...!?」
ゆっくりと首を振る秋那兎の曇った表情に、いやな汗が背を伝う。
美子を下ろすなり、慌てて押しのけて入った部屋は、もぬけの殻。
直前まで妄想していた悪夢の光景でないのは幸いだが、ならば奴はどこへ行ったというのだろうか?
手がかりを求め、直前まで描いていたであろう、キャンバスの覆いを外すと、そこには澄んだ瞳で微笑む悼の肖像画があった。咄嗟に溶剤の滴から守ろうとしたのだろう、汚れてすっかり色の変わった覆いは、彼が直前まで来ていたジャケットである。
「私ね、思うんだ。贋作のサトウさんは、もしかしたら本物のサトウさんでもあったのかもしれない」
「どういうことだい...」
「あいつ、私が初めて会ったときのサトウさんにそっくりだったんだ。狡猾で、人を小馬鹿にしてて、相手から奪うことしか考えてないヤツ。でもサトウさんには、スズキさんが居て、私たちがいて、だからあの人は絵から人間になれた」
「サトウさんは...歪んでた。長い年月、人の汚い感情に晒されて」
スズキがおもむろに、歩き出す。
床に足跡を見つけたのだ。
それを辿る間ずっと、思う処があった。
どうもひっかかるのだ。オカダの情緒が不安定なのは、ただ狂った芸術家特有の性格であるという、それだけなのだろうか。悼に友達になるよう話しかけたり、かと思えば絵を描くから指をよこせと迫ったり、常識があまりにも通じなすぎる。
その姿は、はるか昔、20年前に拾ったばかりで、物の食べ方も、衣類を着ずに外に出てはいけないことすら知らなかった彼、サトウに、どこか被るものがあった。
秋那兎は、見たのだろう。
この足跡の先で、きっと、真相を。
聞こえるはずのない声が、廊下にポツンと取り残されている。
それはスズキの耳に、夏の香りがする風と共に、吹き込んで、話しかけてくる。
“お手本がなければ、何もできないんだ。なぞることは得意なのに”
「...お前は、一体」
“僕はその上、狂っている。だから、サトウくんと仲違いした時、どうやって友達に戻っていいのかわからなかった”
美子と秋那兎が、アトリエから一枚の古紙を手に、スズキの後を追って懸命に駆けてくる音がする。
“もし、僕に、僕自身の人生を歩む力があったなら......サトウくんは、どんな顔してくれたんだろう”
声が、その部屋の前で途絶えた。
割れた廊下の窓からは、うっすらと朝日の気配が漂っていて、もうそろそろ5時にでもなろうかとしているところだ。
重い戸を押し開け、足を踏み入れたそこにあったのは、半分ほど溶けてしまった、一枚の肖像画だった。
顔の崩れた肖像画は、上等なスーツを着て、手に折れた筆を握り締めている。
「“......絵は、描き手に託された想いを捨てられない。しかし、それでもなお、自分は自分であることも、捨てられない“」
美子が喉を詰まらせて読み上げたその手記の最後には、擦り切れて読めないほど昔に書かれた、古いサインが記してあった。
“オカダ“
額縁の隣に据えられた、ふかふかの綿雲みたいなベッドの上で、二人の男が安らかな寝息を立てて眠っている。裂け目から降る、天使の梯子の下で、べったりと黒ずんだ手形がついた天蓋に守られて。
「バカかよ...人間は、お前と違ってあんなインクじゃ溶けねえ...!!」
黒い水溜りが、ポタリ、ポタリと滴で波打つ。
たとえ悪夢でもいい。
もう少しだけ、もう少しだけでいいから、夢が続けばよかったのに。
朝を告げる小鳥のさえずりが、全ての終わりを告げて、光を呼んできた。
これは、とある夏の夜の出来事。
「帰ろう、友達を3人連れて」
秘密結社 路地裏珈琲 2020肝試し
<HAPPY END>
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