「恋予報: ケネディ 前編」
秘密結社 路地裏珈琲
「恋予報: ケネディ 前編」
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血液検査の結果が出た途端、軍服の男が血相を変えて飛んできた。訳もわからないまま別室によばれ、素直に従ったら背後から銃を突きつけられて、牢屋とも住居ともつかない、奇妙な部屋に案内された。打ちっぱなしのコンクリートに、所々きな臭く赤黒い染みが浮いたその部屋で、いつも元気いっぱいであったはずの彼女の顔が、恐怖で埋め尽くされた。この間数十分の出来事であった。
軍事国家に潜入する事になって、ここまでとんとん拍子に話が進みすぎていた分、突然訪れた落とし穴は、とてつもない深さに感じられた。明日色々と君の生い立ちについて聞かせてもらうと言い残した軍人、それが意味するところが、最低でも尋問の類であること、もしかすると、それ以上に人道を無視した何かである事は、容易に察せる。任侠時代に散々ひどい経験を乗り越えてきたのは、仲間あってこそ。丸腰だし、大丈夫って励ましてくれる愛おしい声は聴こえない。何があっても助けてくれたイトウを、今度は助ける番だったのに。
「...。」
一度、眠りにつこうと思った。消耗して無駄な思考を重ねるよりも、いっそ直接対決を望める明日に賭けて、体力を蓄えた方がマシだから。血液検査という単語が妙に引っ掛かり、頭を回ったせいだろうか。不自然に置き去りにされたボロソファで膝を抱え、胎児のように丸くなってすぐ、彼女は淡い夢に取り憑かれた。
その夢は、とても古い記憶の回想録だった。子供の頃、一度だけすごく怖い思いをしたことがある。住んでいた地域で誘拐事件が多発して、幼いケネディは不運にもその標的となったのだ。意味不明な怒声を浴びせて小さな物置に閉じ込められた時、なんでこんな目に遭うのだと大泣きしていたら、先に閉じ込められていた子供が諦めたような顔でこう言ったのだ。
「おひめさまだからよ、わたしたちが」
しかしこの件で本当に怖かったのは、誘拐犯の男ではない。この、子供だ。最初のうちこそ、お姫様同士頑張ろうだなんて、ケネディを仲間だと励まし、優しく接してくれていた彼女が、ひょんなことから擦り傷を作ったケネディを見るなり、豹変したのである。彼女は悪魔のようにキツく目を見開いて、“人間の臭いだ!!”と叫んだ。一層訳がわからず困惑するケネディを追い払い、“偽物め”と繰り返す恐怖の金切り声が、まるで錆びて擦れる鎖のようにけたたましかった。足元が絡んで、悪夢の中の小さな彼女は当時そのまま。うずくまって、目覚める事から遠のいてゆくばかり。悪い夢の定番事項として、口を開いても喉からはうまく声が出ない。
ああ、もう一生このままだろうか?やっとのことで“助けて”と微かに溢れたけれど、
それに呼応して、手を差し伸べてくれる人なんか居ないはずだった。ここは独房だ。そのはずなのに......
「なあ君、大丈夫?」
次の瞬間、彼女は肩に触れた暖かい感触でハッと飛び起き、目を疑った。
人が居る。目の前で心配そうに跪き、満月色のプラチナブロンドを垂らして、こちらを覗き込んでいるではないか。血の気のない美しい肌で、とても透き通った、北極の氷が眼に嵌っている。まだ夢を見ているのかと、ぼんやり手を伸ばし頬に触れたら、冷えた指先に体温が伝わって、途端に気が緩んだ。出会ってすぐの他人、それも素性だって知れないのに、彼の眼に敵意はなく、なんだか不思議と懐かしい気持ちで胸が満たされる。まるで、同郷の人に出会ったような、そんな感じ。
「うなされてた」
「怖い夢を見てたの。だってここ、心細いでしょ?」
「だろうね、俺もちょっと弱ってたとこ」
「あなた、他所の人?」
「まあね......隣、座っても?」
「なんなら、膝でもいいけど」
「それは今度ぜひ、俺んちのソファでお願いしたいなぁ」
そのまま二人で、夢の話を吐き出し尽くして、他愛もない話をした。悪い夢は、聴いて半分こすると消えちゃうんだぜって大真面目な顔で言われたら、本当にそうなるような気がしたのだ。お互いの身の上話をしようって言ったのに、その日は一方的に、彼がケネディの話を聴きたがって、気がついたらまた、いつの間にやら微睡の中へ......。一度目と大きく異なったのは、悪い夢が襲いかかってこなかったことだった。
長らく向かいの独房に住んでいたという彼が名乗ったのは、翌日の夜。一体何をやらかしたやら、彼の独房に多勢の軍人が押しかけてきて、ケネディの尋問が延期になった後である。テディと名乗る彼は、それから毎日、おおよそ決まった時間にふらりとやってきて、眠りに落ちるまで側に居てくれた。いや、正確には、何故か眠くなった頃に現れて、眠気と共に姿を消すのだ。他愛のない話と、ここから出る為にお互いが収集した情報を持ち寄って、日に日に、少しずつ、遠慮して離れていたソファの距離が縮まる度に、明日が来るのが待ち遠しくなっていった。テディがケネディの祖父母と同郷で、同じ景色を観て育ったという、それだけで、無機質な独房に花でも咲いた気分になる。自分の身代わりになってくれている事だけは、気掛かりだったけれど、華奢に見えて身体には自信があると言った通り、ケロっとした様子で戻ってくるから、いつしか心配するよりありがとうを伝える方が良いと、ケネディも努めて心配する事を控えるようになった。
しかし、ある晩、続いていたはずの細やかな安心感は、唐突に消え失せ、事態は一転してしまう。その晩にケネディの部屋へ訪れたのは彼ではなく、手負いの小さな蝙蝠。あの不思議な眠気が訪れなかったせいで、見てしまったのだ。よろよろ、ぱさりと力尽きて床に落ちた蝙蝠が、みるみるうちに膨らんで人の形となり、美しいブロンドの髪を垂らすところを。
「......テディ?」
驚きと戸惑いを纏い、か細く発された呼び声に、彼は残念そうな顔をして力なく微笑んで見せたのだった。そして彼女は悟る。彼が、人ならざるものであったのだと。
続
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