「林檎売りの文化財」(白銀/さい)
秘密結社 路地裏珈琲
「林檎売りの文化財」(白銀/さい)
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時計の針は、止まらない。街頭の棒時計、生活感が転がる部屋の隅、工場、時が止まったかのような、外れにひっそり佇む病院。白銀が独り、大きなカゴを抱えて、病院の中庭で老人を相手に子守唄を歌っていた。そこにいる誰も知らない異国の言葉ながら、不思議と心地よく気持ちが鎮まる歌声だった。
彼女は、死の香りに人いちばん敏感だ。この病院が、一体どのような場所であるかは、漂う空気と薬の匂いですぐにわかった。甘い甘い花の匂い。それは痛みと命を一緒くたに溶かしてしまう、毒にも等しい鎮静剤だ。建物から滲み出てそこら中に漂っている。きっとこの老人たちは、もう長くはない。
「ありがとうね、自分じゃかじってたべられなかったの」
「気にしない、これは、愛」
唐突に“愛”だなんて壮大な単語を持ち出した白銀に、老婆は目を丸くした。白銀の言語能力には、少々難がある。皿の上に砕いて置かれた林檎片を指差して、もう一度“愛”と繰り返した彼女だが、これは決して言い間違いなんかではない。今日一日歩き回って、彼女はちゃんと、サービスという言葉を覚えた。街角で出会った文学少女に林檎を売った際、人に親切を働く事を端的に言い表すには、なんの言葉を選べば良いのかと聞いて、事細かにご教授賜ったのだ。そして、幼児が純であるように、言葉の狡い魔術に毒されていない彼女は、自分の確かな感覚で“サービス”の意味を再解釈した。それが、愛。
「なんだか、照れるわね......いつぶりかしら、甘い林檎」
「おばあさん、ほっぺ、林檎」
人は事細かにものを選り分け、詳細に理解したがる生き物だ。だから、言葉を飼い慣らし、気がつけば本心を煙に巻いて隠してしまう。無償の愛も、対価の愛も、心がこもっていればいい。臆さず愛と口にすることこそが、手で伝える全てが、愛。白銀なりの哲学を、彼女が自ら語る事ができる日が来たならば、人の世は、もう少しだけ優しくなれるかもしれない。
木々のざわめきと共に毒花の気配が舞う午後の箱庭で、老婆に貰った丸い銀色の硬貨を、しなやかな指が、大事に大事に包み込んだ。
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※1000¥お小遣いを手に入れました。
お部屋で各自記帳をお願いします。
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