Old Black Joe (1860年)
フォスター(Stephen Collins Foster)
Old Black Joe (1860年)
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Old Black Joe
Gone are the days when my heart was young and gay,
Gone are my friends from the cotton fields away,
Gone from the earth to a better land I know,
I hear their gentle voices calling Old Black Joe.
I'm coming, I'm coming, for my head is bending low,
I hear their gentle voices calling Old Black Joe.
Why do I weep, when my heart should feel no pain,
Why do I sigh that my friends come not again?
Grieving for forms now departed long ago.
I hear their gentle voices calling Old Black Joe.
I'm coming, I'm coming, for my head is bending low,
I hear their gentle voices calling Old Black Joe.
オールド・ブラック・ジョー(三宅忠明:訳)
若く楽しい日は去り、
友もみな世を去って、
あの世に、静かに眠り、
やさしく呼んでいる、オールド・ブラック・ジョー
今に行くよ、老いたるわれを、
やさしく呼んでいる、オールド・ブラック・ジョー
心も痛まず、なぜに泣く?
友が去り、なぜため息をつく?
とっくに亡くなった友を、嘆きながら。
やさしく呼んでいる、オールド・ブラック・ジョー
今に行くよ、老いたるわれを、
やさしく呼んでいる、オールド・ブラック・ジョー
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スティーブン・コリンズ・フォスター(Stephen Collins Foster、1826年7月4日 - 1864年1月13日)は、ヘンリ・クレイ・ワークと並んで、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。20年間に約200曲を作曲し、その内訳は135曲のパーラーソングと28曲のミンストレルソングである。多くはメロディの親しみやすい黒人歌、農園歌、ラブソングや郷愁歌である。「アメリカ音楽の父」とも称される。
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貧困
同年フォスターはペンシルベニアに戻ってコンサートを開き、クリスティ・ミンストレルズと共演、最も有名な歌曲が書かれる時代の始まりとなった。1850年に、ピッツバーグの名医の長女であるジェーン・マクダウェルと結婚、翌年には娘マリオンをもうけるが、この後に音楽的円熟を見せ「ケンタッキーの我が家」、「主人は冷たい土の中に」、「故郷の人々」(「スワニー河」)の傑作を次々に生む。1853年にフォスターはニューヨークに出てファース・ポンド社と契約を結び、自作・他者の歌曲などをアンサンブル用に編曲した「ソーシャル・オーケストラ」(The Social Orchestra)を発表。翌1854年には「金髪のジェニー」を発表。この年に妻子もニューヨークに移り住む。が、翌年にはフォスターは単身ピッツバーグに戻り、続いて妻子も追うが、1855年の両親の死と翌1856年の兄ダニングの死はフォスター一家に打撃を与え、借金暮らしに陥る。1857年、ファース・ポンド社との先払い契約によって辛うじて金銭を得るが困窮生活は続く。1860年にニューヨーク市に再び転出し「オールド・ブラック・ジョー」を発表。が、翌年には全曲の版権を売却、出版社との契約も切れ、作曲しては売るものの夜には金がなくなるというひどい困窮状況に陥り、やがて妻子も去っていく。次第に飲酒に溺れ、孤独に苛まれてゆく
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「オールド ブラック ジョー」
緒園涼子(りょうし)訳詞(1)/久野静夫訳詞(2)/津川主一訳詞(3)・フォスター作曲
(緒園涼子訳詞)
1.
若き日 はや夢と過ぎ
わが友 みな世を去りて
あの世に 楽しく眠り
かすかに 我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
我も行(ゆ)かん
はや 老いたれば
かすかに 我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
我も行かん
はや 老いたれば
かすかに 我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
2.
何(など)てか 涙ぞ出ずる
何てか 心は痛む
わが友 はるかに去りて
かすかに 我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
我も行かん
はや 老いたれば
かすかに 我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
我も行かん
はや 老いたれば
かすかに 我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
(久野静夫訳詞)
1.
楽しき 若き日は過ぎ
わが友 はや去りゆきて
み神の み手にぞ憩う
やさしくも 呼ぶ声
オールド ブラック ジョー
我も行かん
老いたる我を
やさしくも 呼ぶ声
オールド ブラック ジョー
我も行かん
老いたる我を
やさしくも 呼ぶ声
オールド ブラック ジョー
2.
涙は ほほに伝いて
わが胸 痛みにたえず
こころは この世を去りて
やさしくも 呼ぶ声
オールド ブラック ジョー
我もゆかん
老いたる我を
やさしくも 呼ぶ声
オールド ブラック ジョー
我もゆかん
老いたる我を
やさしくも 呼ぶ声
オールド ブラック ジョー
(津川主一訳詞)
1.
いずこぞ 若き日の夢
いずこぞ 過ぎし日の友
世を去り 天国(みくに)へのぼり
やさしく われを呼ぶ
オールド ブラック ジョー
われも行かん
力は失せぬ
静かに 聞こゆるは
オールド ブラック ジョー
われも行かん
力は失せぬ
静かに 聞こゆるは
オールド ブラック ジョー
2.
何ゆえ われは歎くや
何ゆえ こころ沈むや
天国(みくに)へ 友はのぼりて
やさしく われを呼ぶ
オールド ブラック ジョー
われも行かん
力は失せぬ
静かに 聞こゆるは
オールド ブラック ジョー
われも行かん
力は失せぬ
静かに 聞こゆるは
オールド ブラック ジョー
3.
楽しき 日は遠くなり
いとしき わが子もゆきぬ
かの世も 今はま近し
やさしく われを呼ぶ
オールド ブラック ジョー
われも行かん
力は失せぬ
静かに 聞こゆるは
オールド ブラック ジョー
われも行かん
力は失せぬ
静かに 聞こゆるは
オールド ブラック ジョー
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1860年から歌い継がれているんですねー〜
日本🇯🇵では桜田門外の変で井伊直弼が殺害された年です
有名なフォスターですが
晩年は
悲しい運命
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徐々に歌われなくなるフォスター歌曲
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南北戦争が始まると、フォスターの曲の発表の場として重要な位置を占めていた「ミンストレル・ショー」が行われなくなり、フォスターの曲が人々に触れる機会が徐々に減っていった。
また、フォスターは北部側の人間だったため、南部の人間から敬遠されるようになったばかりでなく、フォスターの曲は黒人をテーマに扱ったものや黒人なまりの歌詞が多かったために、奴隷反対の北部からも拒絶されるという板ばさみにもあっていた。
借金もふくらみ飲酒の機会も増えていく
曲が以前のように売れなくなれば、当然収入もそれにつれて少なくなり、フォスターの生活は日増しに苦しいものとなっていった。やけ酒が習慣化し、酒代もばかにならない金額になっていた。なんとか日々の生活費を捻出しようと、楽譜出版社に印税の前借りを要求したり、兄弟から借金をしたりと、精神的にも経済的にも切羽詰った状態だった。
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死去
1864年1月10日、マンハッタンのノース・アメリカン・ホテルに滞在中であったフォスターは、粉々に割れた洗面台のそばで頭部および頚部から大量に出血した状態で倒れているところを作詞家ジョージ・クーパーによって発見され、ベレビュー病院に搬送されたものの13日に発熱と出血多量で死亡した。数日前から発熱しており、意識朦朧の状態でベッドから起き出し、洗面所に入ったところで平衡感覚を失って転倒、その際に頭部を洗面台にぶつけて割ってしまい、その破片で頚動脈を切断されたことが致命傷になったものと推測されている。37歳没。この時のフォスターの所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけであった。フォスターの死を知らされた妻ジェニーは遺体と対面するやその場で泣き崩れたと伝えられている。1862年の作品「夢見る人」(「夢路より」)が発表されたのは死後2か月後のことである。亡骸はペンシルベニア州ピッツバーグのアレゲーニー墓地に埋葬されている。ただし、肺結核で死亡したという説もあるようである。
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37歳で没
僅か38セントと小銭を持って
早世されたんですね〜
Comment
2commnets
- こうじ
- うか🐾城村優歌🐈コメントお休みし〼🙇♀️たくさん調べられて、すごい資料になりましたね! ハーモニカの音色聴きながら、なるほどなるほどと読み耽りました。ありがとうございました😊🎶